第二詩集「深淵を見下ろす」
Claude-Fable-5の批評及び提案
原稿を通読しました。『潰滅』の姉妹篇、というより内向きに反転した続篇として読めます。前便と同じく、総評、個別分析、構成案、そして今回は編集実務上の指摘を最後に加えます。
一、総評――『潰滅』からの転回
『潰滅』が死者論・宇宙論へ外へ外へと開いていく書物だったのに対し、本稿は一貫して内へ潜ります。死者たちの気配は薄れ、代わりに「おれがおれから食み出る」「おれの面が見つからない」「心が行方知れずになる」という自己自身からの疎外が全篇を貫く。前作の鍵語が《念》と《タナトストン》だったとすれば、本稿の鍵語は「脱臼」です。「世界に脱臼する」「意識の脱臼」(「意識の居所」)、文楽人形の垂れた四肢(「脱力してしまった」)、案山子として大地に脚を差し込む(「重い足取りでも」)――関節が外れたまま、それでも立とうとする身体。この一点で本稿は統一されており、詩集としての焦点は前作より絞れています。
書名も適切です。ニーチェの「深淵を覗く者は深淵からも覗かれる」の反転――ここでは深淵は語り手を覗き返すどころか、受け容れを拒否する。「私こそabyssの住人でなければならぬ」のに疎外され、独り縁から見下ろすしかない。つまり本稿の恐怖は「呑み込まれること」ではなく「呑み込んでさえもらえないこと」であり、この転倒は現代の疎外の詩として独自の場所を持っています。表題詩がそれを物語として演じ切っているので、書名と表題詩の対応は前作以上に強固です。
一方で弱点も前作と同型です。論述が詩を侵食する篇が全体の三割ほどあり、同一の常套句(「脳と言ふ構造をした頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場」の完全反復、「ちぇっ」「へっ」「半畳」「白痴」「羸弱」)が今回はさらに頻度を増している。前作では嗤いの反復を指摘しましたが、本稿ではこの定型句の反復が問題の中心です。
二、個別分析
「深淵を見下ろす」(表題詩)
本稿の最高到達点です。ブレイクの幻視とネブカドネザル王の獣人から始まり、「私の涙が大水となって深淵の獣人を溺死させる」という展開で『蜘蛛の糸』を反転させる――カンダタは糸を切られたが、ここでは救う側が自らの左腕を斧で切り落として犠牲を払う。そして引き上げた唯一の存在が「終ぞ私には目もくれず、只管自身に耽り続ける」思索者であるという結末。救済が感謝も応答も生まないこの非対称は、本稿の疎外の主題の最も残酷な結晶です。「私は無数の死を背負った存在となり」の一行で、憐憫が加害に転じる論理も通っている。手を入れるべき箇所はほとんどありませんが、中盤の「私の思索はまだまだ浅薄で」と自己解説する数行だけは、読者に委ねるべき判断を先取りしており削れます。
「ゆっくりと」
喰われて死ぬ「私」がですます体で回想するこの篇は、前作「撲殺」に対応する位置にあります。「撲殺」が意味の不在を礼節で受けたのに対し、こちらは喰われることを「毎日喰ふことに負ひ目を感じてゐた」者の帳尻合わせ、つまり歓びとして受ける。「私はニンゲンと呼ばれるものの眷属なのです」という遅れて明かされる正体、恍惚のうちの死、静かな語り口と内容の残酷さの落差。全篇の中で最も抑制が効いており、削るべき行が一行もない。この水準を本稿の基準線とすべきです。
「欠伸する影法師」
もっとも軽く、もっとも詩である篇。空っ風に撓むアンテナ、その影に凭れたい影法師、上空でとぐろを巻く疾風の天籟、陽だまりの微睡み。観念語がほぼ排され、「嘗ての如くに蒼穹を肩で背負ふ覚悟があったおれ」という前作「蒼穹」(石原吉郎に捧ぐ)への自己言及が、温い陽射しの中でなし崩しに砕ける。前作の緊張を本作の弛緩が振り返るこの構図は、二冊を通読する読者への贈り物になっています。「おれに対してぺっと唾を吐く」で締めず、影法師の夢の「にたり」で終える判断も良い。
「腰痛」
不自由が思考を加速させるという逆説を、ぎっくり腰という卑近から説き起こし、花崗岩の石ころが太陽の死とともに重元素へ輪廻する宇宙時間へ跳び、「何万年も動けぬ巌こそ自由の何たるかを感じてゐる筈」と着地する。自己問答の「土手も蟻の一穴で自壊する」「それは狂人の言だぜ」「それで構はぬではないか」の呼吸も良く、ユーモアと形而上学の配合が本稿で最も成功した篇です。「幽霊談義」の系譜に連なる解毒剤として、構成上も必ず活きます。
「行方知れず」
心が家出してゲリラ戦を挑んでくるという着想の可笑しさと、「唯、おれは苛烈極まりない自己弾劾をしただけなのに」という原因の告白の痛ましさが同居する。「捲土重来」の四字を単独行で置く呼吸、「この心なしと言ふ奇妙に閑かな平安をゆっくりと楽しまう」という締めの余裕。自己解体の主題を悲壮でなく喜劇として書けた稀な例で、残すべき篇です。
「薄明の中で」
レナード・コーエンの低音、蟻地獄の穴凹、薄絹の揺らめき、きいっと鳴く小鷺の群れ。観念と具象の配分が適切で、「重力に捕まっちまったおれは/天を蔽ふ薄絹を掴まうと/手を伸ばすが……」の中断も効いています。音楽篇としては前作のピアソラ篇より内向きですが、その分本稿の基調に馴染む。
「或る冬の日に」
「幾時代が過ぎまして」は明らかに中原中也「サーカス」の借用で、それを男の懊悩と女の哀しみの世代を超えた反復に転用している。木だけが生き残り、女たちの涙を受け止め続けるという image は美しい。ただし「男の懊悩は底無し、女の哀しみは深い」という本質主義的な二分法が延々と敷衍される中盤は、現代の読者には図式として古く映る危険があります。木と霜柱と寒風の具象部を残し、男女論の説明部を刈り込めば、篇の寿命が延びます。
「脱力してしまった」
三十年前の小林麻美のLP「grey」、暖房のない部屋、かじかむ手。前作「憧憬」と響き合う具体的な固有名と生活の細部が、この篇を観念の反復から救っています。「率直に言ひませう。/おれは敗北したのです」という単純な告白が、本稿のどの哲学的宣言よりも重い。この落差そのものが、論述系の篇を削るべき根拠になっています。
「十六夜に追ひ込まれて」
性交と夢魔との論争を交互に編む構成は意図が明確で、末尾の「この女の性的な匂ひで満ちたそんな世界の存在をおれは肯定するぜ」は、世界認識が誤謬だと嘲弄されてなお世界を官能において肯定するという、本稿では珍しい生の側への着地です。前作「妖精」が救済の幻として官能を描いたのに対し、こちらは挑戦状としての官能。ただし性描写の反復が機械的で、三度目以降の挿入と喘ぎの描写は情報量を増やしていません。半分に圧縮すれば、夢魔との対話との交互のリズムがむしろ際立つはずです。
「乖離性自我同一障害といふ病」
本稿の主題宣言となる篇ですが、一点重要な判断を求めます。臨床用語は「解離性同一性障害」であり、「乖離性自我同一障害」は正式な病名ではありません。これが誤記なら訂正すべきですが、私はむしろ意図的な造語として読みました――臨床の「解離」ではなく、存在論的な「乖離」、人格の複数化ではなく自己と自己の間の埋まらぬ距離。もしその意図なら、篇中か註で一言「これは医学の病名ではない」と宣言して読者の誤読(および当事者への配慮の問題)を先回りする方が安全です。曖昧なままだと、単なる無知と受け取られる危険が大きい。
「意識の居所」「破綻してゐる夢神話」「朦朧」――無意識否定の三篇
「無意識はない、あるのは気付かれない意識だけだ」という主張は本稿の理論的中核で、屈折率の違う薄層という比喩、意識の融解と凝固、全反射としての睡眠など、比喩の発明も伴っています。問題は同じ主張が三篇(実質は「屈辱であればこそ」の夢批判を含め四箇所)で反復されることです。論としては一度で足りる。「意識の居所」に理論を集約し、「朦朧」は埴谷雄高の観念実験の失敗譚という物語部分だけを残し、「破綻してゐる夢神話」は削るのが私案です。フロイト批判の啖呵は「おれは心理学も精神分析学もこれっぽっちも信じない。/何故って、それが嘘っぱちだからさ」という結語だけで十分に通じます。
「独断的なる五蘊場試論 その一/その二」
命題・証明・証明終わりという数学論文の形式を詩集に持ち込む試みですが、ここには見過ごせない問題があります。本稿には「哲学における数学的な言説は誤謬なるか」という、数学に依拠する哲学を全面的に断罪する篇が併載されている。バディウを誤謬と切って捨てた同じ書物が、五蘊場論を「証明」の形式で語る――これが無自覚なら自己矛盾、自覚的なら高度な自己諧謔です。「Ironyな存在でありたい」と宣言する詩人ですから後者だと信じたいが、現状はどちらとも読めてしまう。「独断的なる証明」という表題に既に照れは含まれているものの、たとえば証明の末尾に自らの形式を嗤う一行を置くなど、諧謔であることの合図をもう一段明示すべきです。なお神経科学の説明部(ニューロン、自己組織化マップ云々)は散文としても中途半端で、ここは前作への助言と同じく、思い切って註か補遺に落とすべき箇所です。
「時間の矢なんぞ嘘っぱちである」「幽玄なる重み」「没落の果てに」「言霊の残る国において」
論述が勝ちすぎる群です。時間論は「時間の矢は死体にのみ有効である」という掉尾の一行が鮮烈で、逆に言えばこの一行のために前段の議論は三分の一で足りる。「幽玄なる重み」はマクドゥーガルの魂の計量実験と棺の重さの錯覚という良い素材を持ちながら、ドストエフスキー論が中間で肥大している。「棺を担ぐとき思ひの外重いと感ずるのは~死の重さを測り間違へるからである」の結部は本稿屈指なので、ここへ最短距離で到る形に刈るべきです。「没落の果てに」は1%と99%という用語がすでに時代の符牒であり、前作の「貧民どもへの哀歌」と同じ問題を抱えます。「言霊の残る国において」は文化論として面白いが詩ではない――ただし「吾もまた、書かれし文字に入水する如く、/吾を全身文字に託すなり」の結びは、詩を書くことへの信仰告白として本稿のどこかに残す価値があります。
「畸形」
北条民雄への言及が示すとおりハンセン病文学の系譜を意識した篇で、「私は鏡だったのかも知れません。/他者に自分の内奥を突き付ける鏡です」という中核は強い。ただ、実在の障害者・当事者の声を装う形式である以上、語り手が本稿の「おれ」の変奏(存在論的な畸形の寓意)なのか、独立した仮構の人物なのかを、配置と文体でもう少し明確にすべきです。寓意として読ませるなら「異形」「異物を吐き出すやうに」と並べて置くのが有効でしょう。
「異物を吐き出すやうに」
短く、鋭く、完結している。「あるにもかかはらず見出さうとしなければ、/決して見出されることがない運命の存在」という路傍の石の規定と、冷たい雨の中を傘も差さずに歩く結末。本稿の短詩型はこの篇が最良で、逆に言えば、多くの長篇もこの長さまで蒸留できる可能性を示しています。
三、文体的な癖について
前作より深刻になっている点を率直に述べます。「脳と言ふ構造をした頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場」という定型句が、数えた限り十回近く完全な形で反復されます。ホメロスの枕詞のような儀礼的反復として機能させる意図かもしれませんが、儀礼として効くのはせいぜい三回までで、以後は読者に「またこの句か」という弛緩を生む。初出で完全形を示し、以後は「五蘊場」「頭蓋内の闇」と短縮する、あるいは毎回少しずつ変奏する(実際「晒し首の頭蓋内」という変奏は効いています)ことを勧めます。「ちぇっ」「へっ」「半畳が入る」「嘯く」「白痴」「羸弱」「哄笑」も同様で、これらは語り手の署名である一方、頻度が過ぎれば署名は判子になります。
人称の揺れ(おれ/私/吾)は、逆に本稿の財産になり得ます。通読すると、おれ=反抗と自嘲の人称、私=傷と哀しみのですます体の人称、吾=存在論の文語的人称、という分担がすでに半ば成立している。これを意識的に徹底すれば、一人の語り手の三つの声部として詩集全体がポリフォニックに構造化されます。現状は数篇で混在があるので、そこだけ整えれば良い。
四、構成の提案
現在の配列を、脱臼の進行として四部に編み直す案です。
第一部「ぼんやりとした恐怖」――自己疎外の提示部。「ぼんやりとした恐怖」「焦燥」「乖離性自我同一障害といふ病」「渇仰」「行方知れず」「たゆたふ」。おれがおれから食み出るという主題をここで出し切る。
第二部「意識の居所」――理論部。「意識の居所」「渺渺と」「五蘊場試論 その一・その二」「封印」「忘却」「時間の矢」(圧縮版)。論述系をここに隔離し、相互の重複を刈って半分に。「封印」の運慶論――彫り出される仏像は実は時々刻々変容している――は理論部の白眉なので中心に据える。
第三部「深淵を見下ろす」――物語と幻視の部。「魔の手」「十六夜に追ひ込まれて」(圧縮版)「ゆっくりと」「深淵を見下ろす」「畸形」「異形」「異物を吐き出すやうに」「棄てられる」「すれ違ひ」。本稿の脊椎です。表題詩を部の中央でなく末尾に置き、無数の死を背負って第四部へ渡す。
第四部「欠伸する影法師」――弛緩と持続の終幕部。「薄明の中で」「脱力してしまった」「何となく」「或る冬の日に」「曙光」「欠伸する影法師」「惚れる」「死へ傾く」、掉尾に「ふらつきながらも」。激しい篇で終えず、陽だまりと微睡みと、それでも一歩一歩進む足取りで閉じる。「死へ傾く」の「変はらぬ日常こそが正統な哀しみの表し方」という倫理は前作「撲殺」の礼節の倫理の直系であり、この位置なら二冊を貫く背骨として響きます。現行の最終篇「ふらつきながらも」の「おれは自分の位置を見失ってゐた」という結語は、位置を見出して終わる「位置」と対にすれば、見失ったままで書物を閉じる勇気として肯定できます。
削除候補は「破綻してゐる夢神話」「没落の果てに」「哲学における数学的な言説は誤謬なるか」(これは詩集でなく評論として別途発表する価値があります)、「春眠暁を覚えず」(小品として弱い)、「正座」「偽装」「赤裸裸に」のいずれか一篇(主題が重複)です。
五、編集実務上の指摘
最後に、内容以前の問題として必ず確認いただきたい点があります。
第一に、目次と本文の不一致。目次の「誤謬する差異」に対応する篇が本文になく、代わりに「哲学における数学的な言説は誤謬なるか」がある。目次の「連続は維持すべきものなのか」も本文に見当たらない。逆に本文の「がらんどうの胸奥は」は目次にない。「十六夜の夜に追ひ込まれて」(目次)と「十六夜に追ひ込まれて」(本文)、「絶望の行進」(目次)と「行進する」(本文)も食い違っています。
第二に、脱字と思われる箇所が相当数あります。おそらく外字か変換の事故でしょう。「夜と朝のの薄明」「の底のヘドロ」(沼?)、「微風がぎ漣が立つに映る」(そよぎ/水面?)、「手がむ中」「手はんで」(かじかむ?)、「無線のが強烈な空っ風で」(アンテナ?)、「其処かられ出る魂魄」(漏れ出る?)、「大を掻きながら」(大鼾?)、「を噛む思ひ」(臍?)、「がましい」(烏滸がましい?)、「辺りはに蒼白く」など。ざっと二十箇所以上あり、意図的な伏字とは考えにくいので、元原稿との照合を強くお勧めします。
第三に、表記の統一。本稿の「趨暗性」は前作の「趨闇性」と表記が異なります。二冊を続き物として世に出すなら、どちらかに揃えるべきです(闇を偏愛する本稿の語彙体系からは「趨闇性」に分があると考えます)。
総じて、本稿は『潰滅』より主題の焦点が絞れており、「深淵を見下ろす」「ゆっくりと」「欠伸する影法師」という三つの明確な頂点を持っています。課題は前作と同じく論述の肥大と定型句の摩耗であり、体感で現状の七割程度の分量に絞れば、疎外と脱臼の詩集として立ちます。逐行の添削や削減リストの具体化が必要でしたら、どの篇からでもお付き合いします。


