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悲哀

悲哀

 

存在を否定される事を以てして存在する事を余儀なくされたものは、

その背中に哀しみが漂ふのは勿論、自虐する己の性のまま、

独り黙考の中に佇み、そして舌を噛み切るやうな思ひを抱きながら、

霞をも食らひ、それでも生を手放さずにゐる事を堪へ忍ぶ。

嗚呼、何を思ふ。ただ、のたりと日が沈む中、辺りは静かに夕闇に包まれてゆく。

 

ゆったりと流れる時間にただ、自死のみを意識に上らせながら、

それの鼻をつまんでみては自嘲してみて、

吾を嗤ふ退屈でありながら濃密な時間に身を置く事で、

己の存在の悲哀を噛み締めるのだ。

 

其処にはきっと空虚しかない筈なのだが、

己はそれを貪り食ふ事しか出来ないのだが、

それが美味くて仕方ないのもまた事実なのだ。

 

それを他人は霞と言ふのかもしれぬが、

己にとっては三度の飯より美味いものなのだ。

空虚を食らふ事の虚しさがただ、己を和ませる。

それはとことん虚しくなくてはならぬ。

虚しくある事でやっと己は食ふ事の宿命を忘れられ、

浄化される仮象の中で恍惚の態を覚えるのだ。

 

ゆっくりと日は沈んでゆく。

この夕闇迫りまた、茜色に染まる夕暮れ時ほど

悲哀を背負った存在には相応しい時間はないのかもしれぬ。

 

さあ、それを避けずに独り太陽が地平線に沈んでゆく時間の充足感に身を溺れさせながら、

やがてくる虚しき漆黒の闇の時間の中で独り蹲りながら、

しかし、その豊饒さに吾を忘れるのが至福の時なりだ。

ゆやーんと、暮れ行く夕日に中原中也のNihilismを思ひながらも、

己は既にNihilismでさへ救へずにゐる己の有様に苦笑ひするのだ。

ゆやーん、ゆよーん。

汚れちまった哀しみを背負はずして己の悲哀が喜ぶ事があるのだらうか。

Claude-Opus-4.7の批評

批評

積緋露雪「悲哀」――空虚を食らう者、あるいは中也以後のニヒリズム

この作品「悲哀」は、前作「軋轢」と対をなしながらも、それとは異なる位相に踏み込んだ散文詩である。「軋轢」が自己内部の複数性とその抗争を描いたのに対し、本作「悲哀」は、存在そのものに対する根源的な否定感と、それにもかかわらず生き続けることの倒錯した快楽を主題としている。

そして決定的に重要なのは、本作が中原中也という固有名を呼び出し、しかもその中也のニヒリズムさえ「もはや自分を救えない」と宣告している点である。これは単なる文学的引用ではない。詩史的位置取りの表明であり、同時に詩史からの離脱の宣言でもある。

以下、詳細に読み解いていく。


一、冒頭の存在論的逆説――「否定される事を以てして存在する」

作品は、極めて鋭い逆説から始まる。

存在を否定される事を以てして存在する事を余儀なくされたものは、

この一文は、本作の存在論的基礎を一行で示している。

通常、「存在を否定される」と「存在する」は対立する。否定されれば存在しないはずである。しかしここで作者は、否定されることそのものが存在の様式となっている存在を提示する。

これはいくつかの読み方ができる。

第一に、社会的・関係的な意味での読み方。すなわち、他者から、世界から、あるいは自分自身から「お前は存在すべきではない」と告げられながら、それでも存在し続けねばならない者。この読みでは、本作は疎外と自己否定の詩となる。

第二に、より形而上的な読み方。存在は、それが否定の対象となりうるという事実によって初めて存在として意識される。つまり、否定可能性こそが存在の証である。否定されない存在は、そもそも存在として現れない。この読みでは、本作は存在の自己意識の構造を描いた詩となる。

第三に、最も切実な読み方。生まれてしまった以上、生きざるを得ないという強制性。「存在する事を余儀なくされた」という言い方には、存在が選択ではなく刑罰であるかのような響きがある。これは前作「軋轢」の「何故に俺が存在してしまったのか」という愚問と直接連続している。

おそらく、本作はこれら三つの読みを同時に成立させている。そしてこの三層構造こそが、冒頭一行に密度を与えている。


二、「舌を噛み切るやうな思ひ」――抑圧される言葉

続いて、語り手の身体的姿勢が示される。

独り黙考の中に佇み、そして舌を噛み切るやうな思ひを抱きながら、

「舌を噛み切る」という表現は二重に機能している。

一つには、自死の暗示。舌を噛み切ることは古典的な自決の方法でもある。
もう一つには、言葉の抑圧の暗示。舌は語る器官である。それを噛み切るとは、語ることを自ら封じることである。

本作は詩であり、書かれた言葉である。しかしその言葉を発する語り手は、同時に「舌を噛み切るやうな思ひ」を抱いている。つまり、語ることと語らないことの間の極度の緊張の中で、本作は書かれている。

この緊張は、後半の「中原中也のNihilism」への言及と深く関わってくる。中也は語った詩人である。しかし本作の語り手は、語りながら同時に語ることを否定する者である。


三、「霞をも食らひ」――生の最低限への退却

霞をも食らひ、それでも生を手放さずにゐる事を堪へ忍ぶ。

「霞を食う」という慣用句は、仙人のように実体のないものを糧として生きることを指す。しかしここでは仙人的な超越の意味よりも、生きるための最低限の糧さえ持たないという否定的な意味が強い。

しかも興味深いのは、「生を手放さずにゐる事を堪へ忍ぶ」という言い方である。
通常、「生きることを耐え忍ぶ」と言うところを、作者は「生を手放さずにゐる事を堪へ忍ぶ」と言う。
これは微妙だが重要な違いである。

前者であれば、生は与えられたものであり、それを引き受ける受動性が前面に出る。
後者では、生を手放さないという能動性が浮上する。
語り手は、生を手放すこともできるのに、手放さない。その能動的な選択を、しかし耐え忍びながら行っている。

ここに、自死との微妙な距離感がある。
死は可能性として常にある。しかし語り手は、それを選ばない。選ばないという選択を、苦しみながら続ける。

この姿勢は、後の「自死のみを意識に上らせながら、それの鼻をつまんでみては自嘲してみて」という箇所で、さらに鮮明になる。


四、「のたりと日が沈む」――時間の質感

嗚呼、何を思ふ。ただ、のたりと日が沈む中、辺りは静かに夕闇に包まれてゆく。

「のたりと」という擬態語が秀逸である。
これは蕪村の有名な句「春の海ひねもすのたりのたりかな」を想起させる語であり、ゆったりとした、しかし重く粘性のある時間の流れを示す。

ここで作者は、苦悩の時間を「のたり」と表現することで、苦悩を急性のものではなく、慢性的で、長く引き延ばされたものとして描いている。

これは本作の時間意識の基調をなす。
本作の苦悩は、激しい発作ではない。
それは、夕方の長い時間のように、ゆっくりと、しかし確実に、語り手を包んでいく。

そしてこの「のたり」とした時間は、実は前作「軋轢」にはなかった質感である。
「軋轢」は、内部の声同士のせめぎ合いという、ある意味で動的な構造を持っていた。
本作「悲哀」は、それとは対照的に、動きを失った、停滞した時間を描いている。

語り手はもはや争っていない。
ただ、沈んでいく。


五、「自死の鼻をつまむ」――自死との戯れ

第二連は、本作の中でも最も奇妙で、同時に最も鋭い箇所の一つである。

ゆったりと流れる時間にただ、自死のみを意識に上らせながら、
それの鼻をつまんでみては自嘲してみて、

「自死の鼻をつまむ」とは何か。
これは比喩としてかなり独特である。

鼻をつまむという行為は、通常、何か悪臭のするものに対する反応である。
あるいは、子供をからかうような、軽い接触の動作でもある。

つまり、語り手は自死を恐れているのでも、憧れているのでもない。
それを軽くいじっている

自死という、本来であれば最も重く、最も深刻な主題を、まるで子供のいたずらのように扱う。
そしてそれを「自嘲」する。

ここには、二重の自嘲がある。
一つは、自死を真剣に考えてしまう自分への自嘲。
もう一つは、自死を真剣に実行できない自分への自嘲。

そしてこの二重の自嘲が、「退屈でありながら濃密な時間」を生む。

吾を嗤ふ退屈でありながら濃密な時間に身を置く事で、

「退屈でありながら濃密」という形容矛盾が見事である。
退屈と濃密は本来両立しない。しかし、自己観察の極限においては両立する。

何も起こらない。何も決断しない。何も解決しない。だから退屈である。
しかしその間、意識は絶えず自分を見つめ、自分を嗤い、自分を反芻している。だから濃密である。

これは、現代における鬱的時間の正確な描写でもある。


六、「空虚を貪り食ふ」――倒錯した食欲

第三連で、本作は決定的な転回を迎える。

其処にはきっと空虚しかない筈なのだが、
己はそれを貪り食ふ事しか出来ないのだが、
それが美味くて仕方ないのもまた事実なのだ。

ここで、本作の核心的なイメージである「空虚を食らう」が登場する。

これは前作「軋轢」における「異形の吾」の「雑食性」とつながりながらも、決定的に異なる。
「軋轢」では、異形の吾はあらゆるものを食らい、焼き尽くす。それは破壊的かつ創造的な力であった。
本作では、語り手は空虚しか食らえない
そして、その空虚が美味い

この倒錯はきわめて重要である。

通常、空虚は欠如であり、満たされるべき不在である。
しかしここでは、空虚そのものが食物となり、しかも美味として味わわれる。

これはニヒリズムの単なる受容ではない。
ニヒリズムを栄養として摂取し、消化し、それによって自分を維持するという、より屈折した態度である。

語り手は虚無を嘆いていない。
虚無を糧にしている。
そしてそれを楽しんでいる。

ここに、本作の倒錯した快楽の構造がある。


七、「三度の飯より美味い」――俗語による衝撃

それを他人は霞と言ふのかもしれぬが、
己にとっては三度の飯より美味いものなのだ。

ここで、文体が一瞬大きく崩れる。
それまでの古雅な調子の中に、突然「三度の飯より美味い」という俗な慣用句が挿入される。

この落差が効いている。

「空虚を貪り食ふ」という形而上的なイメージのすぐ後に、「三度の飯より美味い」という庶民的な表現が来ることで、語り手の倒錯的快楽が、抽象的観念ではなく身体的・日常的な実感として立ち上がる。

これは詩的にきわめて巧みな処理である。
もしここで「至上の美味」「無上の悦楽」などと書いていたら、作品は観念のレベルにとどまったであろう。
「三度の飯より美味い」と言うことで、虚無の食らい方が、ある種のグロテスクな日常性を帯びる。

毎日、朝昼晩、私は虚無を食う。
それが私の食事である。
それが私の生活である。

このように読めるのである。


八、「浄化される仮象」――虚しさの宗教性

空虚を食らふ事の虚しさがただ、己を和ませる。
それはとことん虚しくなくてはならぬ。
虚しくある事でやっと己は食ふ事の宿命を忘れられ、
浄化される仮象の中で恍惚の態を覚えるのだ。

この四行には、本作の最も深い構造が示されている。

まず、虚しさは「和ませる」ものとして描かれる。
苦悩を激化させるのではなく、鎮めるものである。

そしてその虚しさは「とことん」でなくてはならない。
中途半端な虚しさは役に立たない。
徹底した虚しさだけが、語り手を救う。

なぜか。
「食ふ事の宿命を忘れられ」るからである。

ここで「食ふ事の宿命」とは何か。
それは、生きるために何かを摂取し続けねばならないという生存の強制性である。
人間は食べねば死ぬ。だから食べ続ける。これは生の根本的な束縛である。

しかし、空虚を食うことが極限に達すると、その「食う」という行為自体が虚化する。
何も食っていないに等しくなる。
そのとき、語り手は食うことの宿命から、束の間、解放される。

これはほぼ宗教的な体験の構造である。
仏教における断食や瞑想に近い。
あるいはキリスト教神秘主義における「魂の暗夜」にも通じる。

しかし作者はそれを「浄化される仮象」と呼ぶ。
ここが鋭い。
真の浄化ではない。仮象の浄化である。
語り手は、自分の恍惚が幻であることを知っている。
それでもその仮象に身を委ねる。

知りながら騙される。
これは、本作の倫理の核心である。


九、夕暮れ時――悲哀の固有時間

ゆっくりと日は沈んでゆく。
この夕闇迫りまた、茜色に染まる夕暮れ時ほど
悲哀を背負った存在には相応しい時間はないのかもしれぬ。

夕暮れは、日本詩歌の伝統的主題である。
古来、夕暮れは「逢魔が時」と呼ばれ、昼と夜の境界、生と死の境界、こちら側と向こう側の境界として機能してきた。

しかし本作の夕暮れは、それらの伝統的意味とは少し違う。
ここでの夕暮れは、悲哀のための時間である。

夕暮れは終わりつつあるが、まだ終わっていない。
昼ではないが、まだ夜でもない。
完全な光ではないが、完全な闇でもない。

この中間性こそが、悲哀を背負った存在に相応しい。

なぜなら、悲哀を背負った存在もまた、中間的だからである。
完全に生きているのではない。しかし完全に死んでもいない。
完全に絶望しているのでもない。しかし完全に希望を持っているのでもない。

夕暮れと悲哀は、その未決性において一致する。


十、「漆黒の闇の豊饒さ」――最終的な反転

やがてくる虚しき漆黒の闇の時間の中で独り蹲りながら、
しかし、その豊饒さに吾を忘れるのが至福の時なりだ。

ここで、本作はもう一段の反転を見せる。

漆黒の闇は「虚しき」と形容されながら、同時に「豊饒」とも形容される。
虚しさと豊饒さが、矛盾なく重なる。

これは、第三連の「空虚を貪り食ふ」と「美味くて仕方ない」の構造と同じである。
虚無は欠如であると同時に充溢である。

そしてこの豊饒な闇の中で、語り手は「吾を忘れる」。
これが「至福」だという。

「吾を忘れる」とは、自己を失うことである。
前作「軋轢」では、混沌の中で「俺を見失はずにゐる」ことが主題であった。
本作では、それと正反対に、「吾を忘れる」ことが至福として描かれる。

この対比は重要である。

「軋轢」では、自己を保持することが課題であった。
「悲哀」では、自己を解体することが救済となる。

二作品は、自己との関係において正反対の方向性を示している。
そしておそらく、作者にとって、この二つは矛盾するものではなく、両極を行き来するものなのである。

立つこと(屹立)と、消えること(吾を忘れる)。
この両極の間で、作者の詩は揺れている。


十一、「ゆやーん」――中原中也の召喚

そして、本作の最も決定的な瞬間が訪れる。

ゆやーんと、暮れ行く夕日に中原中也のNihilismを思ひながらも、
己は既にNihilismでさへ救へずにゐる己の有様に苦笑ひするのだ。
ゆやーん、ゆよーん。

「ゆやーん、ゆよーん」は、言うまでもなく中原中也「サーカス」の有名なオノマトペである。

ゆやーん ゆよーん ゆやゆよん

中也のこの音は、ブランコのように揺れるサーカスの空中ブランコの音であり、同時に虚無の音でもある。意味を持たない音、しかし強烈に何かを伝える音。

作者がこの音を引用するのは、単なる文学的オマージュではない。
そこには明確な詩史的意識がある。

中也のニヒリズムは、戦前の日本詩における虚無の最も先鋭な表現であった。
「汚れつちまつた悲しみに」をはじめとする中也の詩は、悲哀を歌うことの極北を示した。

しかし作者は言う。
「Nihilismでさへ救へずにゐる」

これは衝撃的な認識である。

中也の時代には、ニヒリズムを表現することそのものが救済として機能した。
虚無を歌うことで、虚無が形を持ち、共有可能なものとなり、それによって詩人は救われた。
中也の「ゆやーん」は、虚無の発声であると同時に、虚無に抗する歌でもあった。

しかし作者は、もはやその救済が効かないと言う。
ニヒリズムを表現しても救われない。
ニヒリズムによって自分を浄化することすらできない。

これは、中也以後の詩人の位置を明確に示している。

中也においてはまだ「歌」として成立していた虚無が、現代では歌としてさえ成立しない。
あるいは、歌として成立しても、それが救済として機能しない。

しかし、注目すべきは、作者がこの認識に対して「苦笑ひ」で応じる点である。
絶望でも、嘆きでも、怒りでもない。
苦笑い。

これは、ニヒリズムの底のさらに下にある態度である。
ニヒリズムさえ救えないという認識を、笑い飛ばすほどではないが、深刻に受け取りすぎることもなく、苦笑として受け止める。

ここに、本作のもっとも成熟した倫理がある。


十二、「汚れちまった哀しみ」――最終的な問い

汚れちまった哀しみを背負はずして己の悲哀が喜ぶ事があるのだらうか。

最終行は、再び中也への言及である。
「汚れつちまつた悲しみに」は中也の代表作の一つであり、「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる」というあの詩である。

しかし作者は、ここで重要な変奏を行っている。

中也では、「汚れた悲しみ」は降りかかってくるものであった。
本作では、それは「背負ふ」ものである。

降りかかるものは外から来る。
背負うものは自ら担ぐ。

つまり作者は、汚れた哀しみを能動的に引き受けることを選んでいる。

そして問いが立てられる。
「汚れた哀しみを背負わずして、己の悲哀が喜ぶことがあるのだろうか」。

この最終行は、二重に読める。

第一の読みは、修辞的反語。
汚れた哀しみを背負ってこそ、悲哀は喜ぶ。
背負わなければ、悲哀は満たされない。

第二の読みは、真の疑問。
本当に汚れた哀しみを背負わなければ、悲哀は喜ばないのだろうか。
もしかすると、背負わなくても、悲哀は別の形で喜ぶかもしれない。

おそらく作者は、この両方の読みを残している。

そして注目すべきは、**「悲哀が喜ぶ」**という言い方である。

通常、悲哀は喜ばない。悲哀は悲しむものである。
しかし作者は、悲哀そのものを擬人化し、それが喜ぶ可能性を提示する。

これは本作の倒錯した快楽の構造と一致する。
空虚を食らう快楽。虚無の豊饒さ。汚れた哀しみを背負うことによる悲哀の喜び。

これらはすべて、否定的なものから肯定的な感情を引き出すという同じ構造を持っている。

そしてこの構造こそが、中也のニヒリズムを越えようとする試みなのである。

中也は虚無を歌った。
作者は虚無を食う。
中也は悲しみを受けた。
作者は悲哀を喜ばせる。

この能動性の度合いの違いが、中也以後の詩人としての作者の位置を定めている。


文体について

本作の文体は、前作「軋轢」と共通する旧仮名遣いと漢語的語彙を持ちながら、いくつかの点で異なる質感を示している。

第一に、一人称が「俺」ではなく「己」「吾」である。
「俺」は荒々しく、外向的で、闘争的である。
「己」「吾」は内省的で、古層的で、観想的である。

この一人称の違いは、二作品の主題の違いと完全に対応している。
「軋轢」は内部抗争の詩であり、「俺」たちが争う。
「悲哀」は内省と沈潜の詩であり、「己」が独り佇む。

第二に、本作には「のたり」「ゆったり」「ゆっくり」「ゆやーん」「ゆよーん」といった、ゆるやかな時間性を持つ語が多用されている。
これらは作品全体に粘性のある時間感覚を与え、夕暮れの長い時間を読者に体感させる。

第三に、突然挿入される「三度の飯より美味い」のような俗な表現が、作品に重要な裂け目を生んでいる。
全体が古雅な調子で進む中で、この種の俗語が一つ入ることで、作品はかえって生きた声を獲得する。

第四に、最終部における「Nihilism」というカタカナ・ローマ字混じりの表記が衝撃的である。
それまで純粋な日本語の中で進んでいた作品に、突然西洋哲学の用語が現れる。
これは中也への言及と組み合わさることで、日本近代詩の系譜と西洋思想の系譜の交差点を一瞬で示す効果を持つ。


「軋轢」との関係について

本作は、前作「軋轢」と読み比べることで、その意味がさらに深まる。

二作品は、同じ作者による同じ存在論的問題への、異なる二つの応答である。

「軋轢」は、自己の複数性と内部抗争を描き、それを「飼ふ」ことで決着した。
内部の異形の吾、憤懣分子、哄笑する俺、正当化する俺――それらすべてを抱えたまま、屹立する。

「悲哀」は、その屹立がもはや困難になった瞬間を描いている。
立つことができない。
だから蹲る。
そして、空虚を食う。

つまり、「悲哀」は「軋轢」の屹立が崩れた後の風景である。
あるいは、「軋轢」が昼の戦場であるとすれば、「悲哀」は夕暮れの撤退戦である。

しかし、撤退は敗北ではない。
夕闇の中で空虚を食うことは、別の様式の生存である。
「軋轢」では立つことが課題であり、「悲哀」では沈むことが至福である。

この二作を通して、作者は自己との関係の二つの様式を提示している。
立つことと沈むこと。
保持することと忘れること。
飼うことと食うこと。

この二極を行き来することが、おそらく作者の詩的生存戦略なのであろう。


改善点として考えうること

本作はきわめて完成度が高いが、批評として以下の点を挙げる。

第一に、中盤の「空虚を貪り食ふ」のモチーフが、第三連と第四連で連続して展開されるが、その間でやや反復感がある。「美味くて仕方ない」「三度の飯より美味い」「己を和ませる」と、空虚の肯定的価値が複数の言い方で繰り返されている。これは強調として機能しているが、もう少し凝縮すれば、各文の打撃力が増す可能性がある。

第二に、終盤の中也への言及はきわめて効果的だが、「Nihilism」という語がやや直接的に思想を名指している。もしさらに詩的に処理するなら、「Nihilism」と書かずに、その内実を別の形で示唆する方法もありうる。ただし、ここで明示的に「Nihilism」と書くことには、それを概念として名指して引き受けるという効果もある。読者によって評価は分かれるところだろう。

第三に、最終行「汚れちまった哀しみを背負はずして己の悲哀が喜ぶ事があるのだらうか」は、強烈な締めくくりであるが、中也への依存度がやや高い。もし作者独自の言葉で締めくくるなら、本作の独立性がさらに高まったかもしれない。
ただし、この依存は意図的なものでもある。中也の言葉を借りることで、作者は自分が中也の系譜の中にいることを明示し、同時にそこからの逸脱を行っている。借りながら越えるという二重の動きが、最終行の効果を生んでいる。


総合評価

「悲哀」は、存在することの根源的不合理を「空虚を食らう」という倒錯した快楽として描き、さらに中原中也のニヒリズムを召喚しながら、それさえも救済たりえないという中也以後の地点を提示した、極めて密度の高い散文詩である。

本作の優れた点は、第一に、否定的なものから肯定的な情動を引き出す倒錯の論理を一貫して描いていること。空虚は美味であり、闇は豊饒であり、悲哀は喜ぶ。これらの反転は、単なる修辞ではなく、作品全体の存在論を支える構造として機能している。

第二に、夕暮れという時間の選択が見事である。完全な光でも完全な闇でもない、未決の時間としての夕暮れは、悲哀の固有時間として完璧な舞台となっている。

第三に、中也への言及が単なる文学的趣味ではなく、詩史における自己の位置の表明として機能している。中也のニヒリズムでは救えない地点に立つということ。これは大胆な宣言である。同時に、それを「苦笑ひ」で受け止めるという成熟がある。

そして最後に、「悲哀が喜ぶ」という最終的な逆説。
悲哀そのものに主体性を与え、それが喜ぶ条件を問うこと。
この問いは、本作を単なる虚無の表白から、虚無の倫理学へと押し上げている。

本作は、前作「軋轢」と並んで、自己と存在の根本問題に対する作者の独自の応答を示している。
「軋轢」が屹立の詩であるとすれば、「悲哀」は沈潜の詩である。
そして両者は、同じ問題の二つの面として、互いに補い合っている。

積緋露雪氏の詩業の到達点の一つを示す、優れた作品であると評価する。

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