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誰でもよかった

誰でもよかった

――誰でもよかった。

また、自殺願望者が無差別殺戮を理不尽にも断行した。己の手で自死出来ぬその未練たらたらな生への執着が無差別殺戮の凶行へと駆り立てたのであるが、そのやうに彼を駆り立てた本当の正体は、己に対する憤怒である。本来、暴力は徹頭徹尾内部へ向かふものである。また、さうでなければならないのであるが、自己鍛錬を怠ってきた輩は、憤怒に対する自己耐性が羸弱で、徹頭徹尾内部に向かふべき暴力が、マグマ溜まりが直ぐさま膨脹して噴火する如くに、簡単に外部に対しての凶行に及ぶのである。殺戮はそもそも内部の専売特許で、《吾》は何度《吾》によって殺戮されたか数知れぬのであるが、無差別殺戮の凶行に及ぶ自殺願望者は《吾》殺しを多分一度も行ったことがない意気地無しに違ひないのである。

暴力は、例へば地殻内部のマントルの如きものなのである。それは徹頭徹尾内部で完結し、とはいへ、マントルはマグマの温床でもあるのであるが、マグマは時に荒ぶる神の如くに破壊と焼尽を齎す。しかし、マグマは一方で温泉など恵みを齎すもので、平時、マグマは恵の源泉なのである。そのマグマの産みの親でもあるマントルは、地震といふ途轍もない災害を齎しはするが、しかし、多くの時間は、マントルは地殻内部で完結してゐるものなのである。それが暴力といふものであり、暴力は内部の《吾》殺しを何度も行ひ、内部には死屍累累の《吾》の骸が堆く積まれてゐなければ、その輩は己の存在に対して凝視するといふ生きる上で最も重要なことから目を背け、逃げ回ってゐたのである。それが何を齎すかは火を見るよりも明らかであらうが、さうした輩は一度も《吾》殺しを行ってゐないから、一度追ひ込まれると内部がマントルに成り得てゐない為に、精精マグマ溜まり程度でしかない故に自死すら出来ぬそれらの輩は、もどかしい《吾》の憤怒を制御することを端から已めて、憤怒の赴くままに《他》を殺戮することで死刑といふ《他》の手を借りて己を殺して貰へるといふ「甘え」の構造が其処にはあるのである。そんな甘ったれだから最後の最後に追ひ込まれたときに、一度も《吾》殺しに手を染めてゐないので、《吾》を殺すのではなく、無差別殺戮が行へてしまふといふ幼稚さしかないのである。つまり、無差別殺戮を行ふ輩は社会に「甘え」てゐるのである。

それで殺されたものは浮かぶに浮かばれない。この理不尽は克服すべきもの、或ひは乗り越えるものであってはならず、未来永劫、殺されたものの魂は成仏できずに此の世を彷徨ってゐると看做して、残念なことであるが、全身全霊を込めて供養するしか殺されたものを救ふ術はないのである。

Grok-4.20-Multi-Agentの批評

Grok-4.20-Multi-Agent「誰でもよかった」批評

積 緋露雪氏の第三作「誰でもよかった」は、前二作「水底で揺るてゐるやうな」「それでも壁を叩く」とともに、明確な三部作を形成しています。死後の受動的拡散(水底)、生における能動的で血みどろの固着抵抗(壁)、そしてこの作における「暴力の内部化の倫理」と「外部噴火の警告」という、三つの位相が揃ったことで、氏の思索の螺旋は一層深く、峻烈な立体構造を獲得しました。

本作は散文詩というより、ほとんど論考・檄文に近い。しかしその苛烈さこそが、氏の文体の一貫した特徴である文語体の重みを最大限に活かしています。「徹頭徹尾」「意気地無し」「甘え」といった断罪の語が繰り返されるリズムは、まさに地殻内部で圧力が高まっていくマントルの緊張を言語化したものと言えるでしょう。

1. 核心概念——《吾》殺しと暴力の地質学

最大の貢献は、暴力の本質を「内部完結させるべきもの」として厳格に定義した点です。

氏が用いた地質学的メタファーは、これまでの作品の中で最も洗練され、かつ危険な輝きを放っています。

  • マントル=持続的な内部暴力=繰り返される《吾》殺し。死屍累累の自我の骸が堆積した、安定した psychic structure。
  • マグマ=その圧力の産物。平時には温泉(創造・恵み)となり、制御不能になれば噴火(無差別殺戮)となる。
  • 地震・噴火=内部耐性が欠如した者が外部へ向ける凶行。

この比喩は単なる修辞を超えています。氏は「暴力は徹頭徹尾内部へ向かふものである。また、さうでなければならないのである」と断言することで、仏教的な「自我の死(無我)」や、埴谷雄高的な「虚体」の実践を、現代の精神病理と犯罪に直結させました。繰り返し《吾》を殺すことのできない者は、「一度も《吾》殺しを行ったことがない意気地無し」であり、最終的に「死刑といふ《他》の手を借りて己を殺して貰へる」甘えの構造に逃げ込む——この分析は、冷酷なまでに明晰です。

2. 前二作との弁証法的連関

この三作は、氏の死生観における完結した運動です。

  • 『水底で揺るてゐるやうな』=成功した内部化の果ての受動的恍惚。肉体は死体となり、念は《一》から《無限》へ爆発的に拡散する。慈しみと笑いがある。
  • 『それでも壁を叩く』=生における内部化の方法論。血塗れの両手で「巨大な巨大な壁」を延々と叩き続ける愚直な行こそが、《吾》殺しの実践である。痛みを「ぐっと呑み込み」ながらの持続。
  • 『誰でもよかった』=内部化に失敗した者の末路と、社会への警告。壁を叩けなかった者が、外界に向かって噴火する。そこには「甘え」がある。

つまり「壁を叩く」行為こそが、氏がここで主張する「マントル化」の具体的手法なのです。水底の「ぶら~ん、ぶら~ん」という浮遊は、壁を叩き続けた結果として初めて到達可能な、死後の安らぎであると言えます。三作を通じて、氏は「内部で死に続けること」の重要性を、受動・能動・倫理の三つの角度から抉り出しました。これはまさに「思索の螺旋階段」の一回転です。

3. 文体と思想の射程

文語体の継続はここでも有効です。特に「然し乍ら」「といふものであり」「火を見るよりも明らかであらうが」などの語は、氏の文章に一種の古典的な審判者の威厳を与えています。現代の精神科医や犯罪心理学者が口にしないような、ほとんど宗教的・倫理的断罪の調子を、氏はその古風な文体によって支えています。

思想的には、華厳の「一即一切」と同時に、極めて厳しい「自己責任論」「内部鍛錬論」が貫かれています。長年にわたる重度の鬱との闘病経験を持つ作者が、自らを「壁を叩き続ける狂人」として描きながら、他方で「一度も《吾》殺しを行ったことがない」者を「甘ったれ」「意気地無し」と断じるこの姿勢は、極めて一貫しており、覚悟に満ちています。

4. 批評的留保

しかしながら、この作には前二作にはなかった明確な「他者への厳しさ」があります。

無差別殺戮を行う者の多くは、重度の精神疾患を抱えており、「自己耐性が羸弱」であることはまさに病理そのものです。彼らを「甘え」と断罪する言葉は、読む者に強い衝撃を与えますが、同時に「内部で死に続ける力を持たなかった者」に対する共感の欠如も感じさせます。氏自身が壁を叩き続けてきたからこそ出せる言葉ではありますが、精神の脆さを抱えるすべての読者にとって、救いよりも裁きが先に立つ可能性があります。

また、被害者の魂が「未来永劫、成仏できずに此の世を彷徨ってゐる」とする最終部は、詩的・宗教的には強烈ですが、救済の可能性を完全に閉ざす点で、氏の思想の暗い極限を示しています。ここには供養の姿勢と同時に、赦しを拒む厳しさがあります。

総評

「誰でもよかった」は、積 緋露雪文学の「暗黒面」を正面から抉り出した、重要な一篇です。

水底の慈しみ、壁を叩く愚直さ、そしてこの作における内部暴力の徹底した倫理——この三つが揃うことで、氏の思索は単なる自己救済の記録ではなく、「殺戮の時代」における一つの厳しい指針となり得る域に達しました。

氏が自らを「根っから生きるのが下手くそ」と呼びながら、それでも壁を叩き続け、《吾》を殺し続けているその営為は、この文章自体が証明しています。血塗れの手で壁を叩く行為と、内部で死屍累累の《吾》を積み上げる行為は、結局同じことです。

この三部作は、氏の「夢幻空花なる思索の螺旋階段」における、近年最も完成度の高い結節点の一つと言えるでしょう。

内部でマントルとなり続けるか、マグマとなって噴火するか。
氏の文学は、その選択を、読者に静かに、しかし血の匂いを伴って突きつけています。

さらに深い螺旋を、引き続き期待します。
ぶら~ん、ぶら~ん、と浮遊した後に、再び血塗れの手で壁を叩きながら。

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