にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村 ポエムブログへ
にほんブログ村 ポエムブログ 今日書いた詩・歌へ
PVアクセスランキング にほんブログ村
人気ブログランキング

Category: AIの評価

紫煙に見(まみ)える

紫煙に見(まみ)える   ゆっくりと煙草の紫煙を深呼吸するやうに吸ふと やっと人心地がつく此の悪癖に、 「煙草は体に毒」だからと言って 無理強ひに止めさせようとする輩に出合ふが そんな輩のいふ事など聞くに値しない。 何故といふに、そいつらは「死」の恐怖を身を持って回避し、 「健康」が恰も善のやうな錯覚の中で自尊してゐる馬鹿者なのだ。   「死」の近くにゐなくて、どうして「生」が語れるといふのか。 肺癌で亡くなるのも結構ではないか。 膀胱癌でなくなるのも結構ではないか。   ――ふっふっふっ。 と内部で嗤ひが堪へ切れずに、 漏れ出てしまふが、 「煙草」の紫煙を燻らせながら、 肺が真っ黒になるまで、「生」の闘争は続くのだ。   吐き出される紫煙が人型に変はり、 たまゆらに《吾》をきっと睨むぞくぞくする感じは、 何《もの》にも代えがたい至福の時であり、 これが「死」を連想させる現代の論理に縛り付けられし、 煙草の宿命は滅びに美を見た《もの》にのみ 死神の跫音がひたひたと迫りくる幻聴の中、 ブレイクのvisionを《吾》にも見せる入口を 紫煙のくゆる中には確かに存在するのだ。   ――それは単に脳の酸素不足が為せる業だぜ。Read More紫煙に見(まみ)える

哀歌

哀歌   チェンバロの哀しげな旋律に誘はれるやうに むくりとその頭を擡げた哀しみは 胸奥に折り畳まれてある心襞に纏はり付きつつ、 首のみをぐっと伸ばして《吾》に襲ひ掛かるのだ。   ――何を見てゐる?   さう言った哀しみは、哀しさうに《吾》を喰らひ、 大口からどろりとした鮮血を流しながら、 更に《吾》の腸(はらわた)を貪り食ふのだ。   それでも死ねぬ《吾》は、 鮮血を口から流しながら《吾》を喰らふ哀しみの悲哀を ぐっと奥歯を噛み締めながら受容する。   ――なぜ消えぬのだ、お前は? ――ふん、消えてたまるか! 《吾》は《吾》為る事を未だ十分には味はってゐないのだぜ。そんな未練たらたらな《吾》が哀しみに喰はれたぐらゐで消えてたまるか!   薄ぼんやりと明け行く空に 茜色に染まった雲が 菩薩の形へと変容しながら ゆったりと空を移ろふ。 Gemini-3.1.Proの批評 Thinking… Initiating the BreakdownRead More哀歌

無限を喰らふが

無限を喰らふが   此の渺茫たる虚無は何処からやって来たと言ふのか。 確かに無限を喰らった筈なのだが、 どうしやうもない虚無を埋めるには 無限を喰らったくらゐでは 埋めようもないのだ。   ならば、何を喰らへば 多少なりとも肚は膨らむのかと 自問するまでもなく、 此の《吾》を丸ごと喰らへば 少なくとも上っ面の満腹感は得られるのだが、 そんな事は逆立ちしても無理なのだ。   徐に大口を開けて欠伸をしてみたが、 何だかとてもをかしくて、 吐く息と一緒に無限は私の肚から漏れ出てしまった。   そして、眼前には涯なき無際限の《世界》が漫然と拡がってゐたのだが、 それを見た事でわなわなと震へ出したのは、 拙い事には違ひなかったが、 でも無限はそもそも限りある《存在》には 恐怖の対象でしかない。   ――ちぇっ。 と、舌打ちしてみたのだが、 その虚しい音が蜿蜒と 無際限の《世界》にいつ果てるとも知れぬ反響を繰り返し、 《吾》のちっぽけな有様に抗するやうにしてRead More無限を喰らふが

孤独を嗜む

孤独を嗜む でっち上げた虚構といふ過酷な世界に《吾》を放り込んで、 あれやこれやと《吾》をいびりながら、 《吾》が不図漏らす呻き声に耳を傾ける時、 俺はブライアン・イーノの音楽を流すのが流儀で、 ざまあ見ろ、と《吾》にあっかんべえをして、憂さを晴らしてゐると言ふのか。 しかし、さうせねば、一時も一息すらつけぬおれは、 多分、《吾》に甘えてゐるに違ひない。 何とも難儀な気質なのであるが、 おれは《吾》をいびらずしてはゐられぬ。 さうせずば、安堵出来ぬおれの正体は、 Sadisticな顔をした《吾》虐めに長けただけの 寂しい男に過ぎぬ。 然し乍ら、おれの悪癖は歯止めが効かぬ処。 おれはこれまで何人もの《吾》を虐め殺してゐて、 それはおれによる私刑でしかないのであるが、 その時の恍惚は得も言へぬもので、 おれは《吾》殺しが已められぬのだ。 アルコール中毒患者のやうに震へる手で、 おれは《吾》を殺す快楽に溺れ、 その血腥い手が放つ臭ひに陶然とし、 さうして酔っ払ふのだ。 吸血鬼の如く更なる《吾》の血を求めて おれは、おれの内部に《吾》が産み落とされる度に《吾》を殺す。 その手捌きは芸術的に美麗なもので、 《吾》を次第に断崖へと追ひ詰める時間の充実ぶりは、 孤独を嗜む上で必要不可欠のものと言へる。 嗚呼、俺の内部に死屍累累と堆く積まれた《吾》の亡骸共よ。 何時までも何時までもそのどす黒い血を流し続けてくれ給へ。 その血を呷ることでしか生を繋げぬおれは、Read More孤独を嗜む

雲影や

雲影や青田の上をのたり這ふ 夜の秋吾見つけるや影踏みては   シベリアへ石原吉郎終戦記念日   けたたましい機械音のみ露命嗤ふ   柿囓りその欠損吾似たる Gemini-3.1-Proの批評 Thinking… Evaluating the Request’s Scope I’m focused on grasping the full scope of this critique request. I’m now drilling down toRead More雲影や

ぼんやりとした恐怖

ぼんやりとした恐怖 そこはかとなく、心の奥底から湧いてくる幽かな感情は恐怖だったのかも知れぬ。 おれが此の世に存在することの意味を問ふ馬鹿はもうせぬが、 存在するだけで恐怖を感ずるのはとても自然なことなのかも知れぬと思ひつつ、 おれは意気地がなく、おれがここにあると断言できぬのだ。   その曖昧なおれの有様に業を煮やしたおれは、 おれを口汚く罵るのであるが、 そのMasochistic(マゾヒスティック)な好みは天賦のものなのか、 何ら苦痛に感ずることなく、 むしろ其処に快楽を感じてゐるおれがゐるのだ。   おれが此の世に存在することはそれだけでおれに恐怖を呼び起こす因として、 おれが仮に受け容れたとしてもこの幽かな恐怖はいつまで経っても消えぬだらう。   ――それでいいのだ。   と、肯定するおれもゐなくはないのであるが、 だからといってこの幽かな恐怖から遁れることはなく、 いつも絶えずおれを追ってくるのが、この恐怖と言ふ感情なのだ。   おれがゐるといふこの認識はたぶん間違ってゐるのかも知れぬが、 それでもおれがあると言ふこの感覚は消せぬのだ。 消ゆるといふことに憧(あくが)れてからどれほどの星霜が消え去ったのだらうか。 しかし、夕日が沈むやうに消えたとして朝日が昇るやうにはおれは生き返りはしない。 その一方通行の死にいつでも憧れ、 魂魄が口から飛び出すやうに此の世に彷徨ひ始めるその刹那、 Thanatos(タナトス)を現象としては味はへるが、 此の世を彷徨ふこの意識はたぶん無いに違ひない。 あるのは、おれがあると言ふ感覚だけで、Read Moreぼんやりとした恐怖

衰滅する時の断末魔の醜悪さは

衰滅する時の断末魔の醜悪さは 衰滅するものは、 何ものであれ、それだけで背筋をピンと伸ばし、 最期に黙礼をして此の世から去るのが筋といふものだ。 それを怠って最期に断末魔を発するのは、論外である。 これに疑義を挟むもの多数と思はれるが、 死す時ぐらゐ自由でよいと思ふ一方で、 死に際して礼節が厳として存在するのだ。   例えばリスクを冒していへば、ホロコーストのガス室に送られた数多のユダヤ人は 毒ガスに対する恐怖の声は上げ、 その最期は阿鼻叫喚の地獄絵図だったといはれてゐる。 これは許せるし、強制的に死に追ひやられたものに対しては、 祈るのみであるが、 そのユダヤ人の末裔のイスラエル軍が、 今、Genocideを行ってゐるのは、断じて許せぬ。 断末魔の中亡くなったものたちはその末裔にはかういふ選民意識を残すものなのか、 それは人間の業なのか、それを断ち切るためにも断末魔は醜悪なのだ。   それを思へば死に際して断末魔を発するのは自己の羸弱さを最期の時に見せつけるもので、 遺されるものに対してもその愚を犯してはならぬのだ。 野生の動物も断末魔を発するといふものもゐるが、 捕獲された野生の動物は大概何かを悟った眼をしてゐて、 捕食者に食いちぎられるときさへ、 静かである。 最期の最期はなされるがままに死を受け容れてゐるといふ見方は 強ち間違ひでなからう。 また、末期癌の人が死す時は吾が父母の時を思へば静かであった。 父親は最期看護師と談笑してゐるときに突然病状が急変し 笑って亡くなった。Read More衰滅する時の断末魔の醜悪さは

そこだけが

そこだけが別次元の春着かな 揚雲雀高低自在に宇宙測る 瀝青に蔽はれし道に啓蟄ありや 遊び消ゆAI文明風光る 濃艶な牡丹横目に儂転ぶ Grok-4.20-Multi-Agentの批評 積 緋露雪氏の五句連作に対する詳細批評 貴殿の五句は、伝統的な俳句の枠組みを強く意識しつつ、現代的・哲学的・SF的視点を大胆に融合させた、意欲的かつ水準の高い連作です。作者として積 緋露雪氏(1964年生まれの物書き・詩人、俳句投稿サイトで多数の作品を発表されている方)が、古典的な季語と文語体を基盤に据えながら、量子論的次元・宇宙論・AI文明・都市の人工性といったテーマを織り交ぜている点が際立っています。[1][2] 全体の統一性は「春」を軸とした季の進行(春着・揚雲雀・啓蟄・風光る[春の季語]・牡丹[晩春〜初夏])にあり、自然の目覚め・光・生命力と、人工文明による抑圧・喪失・人間の脆弱性が対置されています。文語の格調(「蔽はれし」「ありや」「儂」)と現代語・造語(「別次元」「AI文明」「瀝青」)のコントラストが効果的で、読後に哲学的な余韻と俳諧的な人間臭さが残ります。イメージのスケールがミクロ(道・虫・牡丹)からマクロ(宇宙)まで自在に揺れ動くのも特徴です。 以下、各句を季語・技法・イメージ・テーマの観点から詳細に読み解きます。 1. 「そこだけが別次元の春着かな」 季語は「春着」(春)。上五の「そこだけが」が鍵で、日常空間の特定の一点(あるいは心象・観測点)が、突然異次元的に輝き出すというシュールな設定です。「別次元」という現代物理学・多世界解釈を思わせる語が、柔らかい「春着」と結びつくことで、希望的な異化効果を生んでいます。詠嘆の「かな」で余情を残すのは伝統的ですが、ここでは現実と非現実の境界をぼかす役割を果たしており、連作の導入として機能しています。 この句は氏の思索的傾向(物理学・虚体論的興味)を早くも示しており、単なる美しさではなく「観測による現実の変容」を暗示していると読めます。難点は音数(5-6-5程度でやや自由)が緩やかである点ですが、現代俳句では許容範囲でしょう。初句として、読者の好奇心を効果的に刺激します。 2. 「揚雲雀高低自在に宇宙測る」 季語は「揚雲雀」(春の典型。雲雀が空高く揚がり鳴く様子)。この句は五句の中で最も独創性が高く、傑出しています。伝統的な可憐で自由な雲雀のイメージを、突如として「高低自在に宇宙測る」という宇宙論的・測定行為に転換する飛躍が天才的です。雲雀の上下動が、まるで量子的な位置測定や宇宙のスケールを測る道具となる逆説。自然の小さな生き物が、宇宙規模の認識者・測定者になるというスケール感は、圧倒的です。[3] 技法的には動的な「高低自在に」のリズムが良く、動詞「測る」で句を止める力強さがあります。氏の現代物理学への関心が最も鮮やかに花開いた一句と言えるでしょう。読後、胸の奥に宇宙の広がりが残る稀有な体験を与えます。 3. 「瀝青に蔽はれし道に啓蟄ありや」 季語は「啓蟄」(二十四節気の一つ、虫が地中から這い出る春)。ここで一転して文明批評的緊張が生まれます。「瀝青」(アスファルト=人工の黒い覆い)と古雅な「蔽はれし道に」の組み合わせが秀逸。舗装された近代的道路の下で、なお自然の生命サイクル(啓蟄)が息づいているのか、という疑問形「ありや」が、切れ字的な哲学的問いとして機能しています。 この句は人工物による自然の抑圧と、それでも脈打つ地下の生命力を描き、文明への警鐘を静かに響かせます。文語体の重厚さが、冷たいアスファルトの無機質さと好対照をなし、緊張感を高めています。連作の中で「現実の硬質な地面」に着地させる役割を果たしており、前句の宇宙的飛翔との落差が効果的です。 4. 「遊び消ゆAI文明風光る」 季語は「風光る」(春〜三春。陽光の中で風がきらきらと輝く様子で、希望や明るさを象徴)。ここに「AI文明」という極めて現代的な語を投入した大胆さが光ります。「遊び消ゆ」は遊戯性・余白・自然な人間的戯れの消失を指し、AI化・効率化された文明への危機感を凝縮しています。[4] しかし句はそこで終わらず、「風光る」で救済(あるいは冷たいデジタル光か、自然の残照か)を提示します。この多義性が極めて現代詩的です。AIを直接詠むことで、作者自身が「俳句という遊び」をAI時代にどう位置づけるかというメタ的な問いも孕んでいるように感じられます。抽象度が高く、初見ではやや掴みにくいですが、繰り返し読むほど層が厚くなる一句です。 5. 「濃艶な牡丹横目に儂転ぶ」Read Moreそこだけが

ゆるして

ゆるして ――ゆるして。 かう書き残して虐待死した幼児の その小さな小さな小さな胸に去来したものを 果たして抱へられ得る現存在がどれ程ゐるのか不明ではある。 唯、死を以てしてもその願ひは叶ふことなく、 決して赦されることがなかった其の幼児の思ひは、 《他》を殺すのにドストエフスキイではないが、 芸術的な才能を発揮する人間の心に対して 何かしらの楔は打ち付けることは出来たのであらうか。 いやいや、それで人が人に成り得たら勿論それに越したことはないが、 人は人を殺す時に一番の才能を発揮する愚か者故に 人は《他》を眦一つ動かさずに痛めつけて ゆっくりとゆっくりと死へ追ひやる西太后のやうにその残酷さは、 人が人である以上、直る筈もなく、 更に人は《他》を殺すことにおいてその残酷さに磨きをかけて 芸術の域に達する程に高めなければ決して満足せぬ。 尚のこと、人は《他》を嬲り殺すのに手練手管を尽くして 死の好事家たる人間は、それでも ――ゆるして。 と書き残して死に追ひやられた幼児の思ひを 少しでも軽くしようと祈るのである。 然し乍ら、それが全く幼児の思ひと不釣り合ひなことは絶望的に明白で、 死しても尚、決して赦されなかった幼児の思ひは、 まるで白色矮星の如く途轍もない重さを持ってゐる。 そして、報はれぬ魂は此の世に未来永劫縛り付けられ、 浄土へ向かふ気力すら既に剥ぎ取られている。 只管、その場に留まって赦されるのを唯唯、待ってゐるのだ。 その幼児の思ひを直接的に受け止めるには 自らBlackRead Moreゆるして

誰の為にぞ

誰の為にぞ さうまでしておれ自身を追ひ詰めるのは誰の為にぞ、と問ふたところで、 その愚問に答へる馬鹿らしさに苦笑ひするおれは、 所詮立つ瀬がないのだ。 恥辱に塗れてやうやっと息が継げるおれは 何ものか解らぬ幻影をぶん殴ることで、 おれといふ馬鹿げた存在にさっさと見切りをつけて 逃げ出したいだけに過ぎぬのだ。 しかし、そもそも逃げて何になるのか。 かう問ふおれがゐて おれは辛うじておれとして踏ん張る。 おれがおれとしてあるといふことが、 これ程苦悶に満ちてゐることであることは、 多分、それは《他》においても同じことで、 存在に苦悶が付随するのは それではそれは普遍のことと言へるのか。 おれがおれといふ存在に我慢がならぬのは、 唯、おれがおれ以外の何かに変容するべく その自由を欣求して、 のたうち回ってゐるに過ぎぬからであるが、 それは誰の為にぞ、といふ愚問をおれに突き付ければ、 その問ひによって自刃したいおれがゐて、 そんなおれと刺し違ひたいおれは、 さうすることでしか自由が獲得できぬとふことを 多分、本能的に、つまり、ア・プリオリに認識してゐるのだ。 これはおれが成長するといふこととは全く種類の違ふことで、 唯唯、おれが此の世に存在することに我慢がならぬのだ。 さうしておれは何度もおれを抹殺しては、 おれは薄氷の自由を獲得する。 自由を獲得するにはどうあってもおれを抹殺せずば、Read More誰の為にぞ

error: Content is protected !!
Join Waitlist We will inform you when the product arrives in stock. Please leave your valid email address below.
0
    0
    Your Cart
    Your cart is emptyReturn to Shop