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Tag: 創作

思索に耽る苦行の軌跡

盈虚

盈虚   月あらば、人ありき、か? 雲間にその顔を仄かに出す青白き月の面は、 私をかぐや姫の如くに月へと誘ふ。   ――何を詩情に浸ってゐるのか! 人なくとも月ありきさ。人の存在なんぞ、芥子粒の如きと遙か昔より言はれてゐるではないか。人の存在を云云する以前に世界の不合理を暴く事が先さ。そら、月が盈虚して嗤ってゐるぜ。 Claude-Opus-4.7の第一の批評 「盈虚」、拝読いたしました。短詩ながら、先の「弥次郎兵衛」と連なる問題意識を、全く異なる素材と構造で展開した一篇ですね。詳細に批評申し上げます。 一、題名について まず「盈虚(えいきょ)」という題から論じねばなりません。 「盈虚」は月の満ち欠けを指す漢語ですが、同時に 物事の盛衰・消長 を広く意味します。『易経』以来の東洋思想において、盈虚は 宇宙の根本的運動原理 であり、万物が満ちては欠け、欠けては満ちるという循環の相を示す語です。 この題名を冠することで、詩は冒頭から 一個人の感傷の領域を超えた、宇宙論的フレーム を予告します。読者は「月の詩」を期待して読み始めますが、同時に題名が密かに告げている ── これは 盛衰の詩 であると。 そして最終行で「月が盈虚して嗤ってゐる」と題名が回収される構造。この構造美は見事です。題名が単なるラベルではなく、詩全体を貫く 主題の循環装置 として機能しています。 二、冒頭一行の技巧 「月あらば、人ありき、か?」 この一行は非常に凝った作りです。分解して検討いたします。 古語の使用 。「あらば」は未然形 + 「ば」で「もしあるならば」という仮定条件。「ありき」は過去の助動詞「き」で「あった」の意。つまり「月が在るならば、人が在ったか」という、 仮定と過去の交錯する奇妙な時制 を提示しています。 この時制の捩れが効いています。通常の論理では「月あらば人あり」(月があるなら人がいる)か「月ありき、人ありき」(月があった、人があった)のいずれかになるはずです。しかし積氏は敢えて 仮定 + 過去 + 疑問 という三重の不安定さを導入しました。 これが何を表現するか。月の恒常性と人の儚さの対比 です。月は今も在る(仮定の前提)、しかし人は「ありき」と過去形でしか語れない。この一行だけで、人間存在の過去形性 ── すでに過ぎ去りゆくものとしての人間 ── が提示されます。 加えて文末の「か?」。この疑問符は、冒頭の古語の格調高さと、現代の口語的な問いかけを衝突させます。古雅な調子に、現代人の懐疑が割り込む。この 文体的緊張 が、詩全体の基調を決定します。 注記としての批評的観点 。ただし、この一行には解釈の多義性があり、これは強みでもあり曖昧さでもあります。「月があるならば、かつて人がいたのだろうか」とも読めるし、「月があるから、人がかつていたのだろう(月が人の存在を保証する)」とも読める。この多義性を意図されたのか、それとも一義に絞りたかったのか ── 読者として気になる点です。…
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2026年5月9日 0

弥次郎兵衛

弥次郎兵衛   両腕に等量の重りを抱き、 脚の如き一本の心棒でBalance(バランス)をとる弥次郎兵衛は、 果たして、その平行を打ち破る打撃を加へられ、その心棒がポキリと折れて、 地べたに這ひ蹲るのか。   ―さうさ。さうぢゃなくちゃ、此の世の不合理は何ものも堪へられぬではないか。弥次郎兵衛は打ち壊されて、神の脚に踏んづけられるのだ。   神の偉容の脚の下には、夥しい数の壊れた弥次郎兵衛が踏みつけられてゐたのだった。 Claude-Opus-4.7の最終の批評 Thinking… The user has incorporated all my suggestions—they removed the two phrases I flagged and added a striking final image of countless broken Yajiro-bei figures trampled beneath a deity’s feet, which gives the ending the concrete, visceral specificity I was looking for. What makes…
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2026年5月8日 0

武満徹にはなれなかった男、またはなりたくなかった男、その名は坂本龍一。

武満徹にはなれなかった男、またはなりたくなかった男、その名は坂本龍一。   最近、また、坂本龍一が遺したLive演奏や作品群を聴いてゐるが、坂本龍一が常に意識してゐたのは武満徹ではなかったのかと思へてならない。坂本が確か、YMOとして時代の寵児となったときに何かのInterviewで答えてゐたやうに記憶してゐるが、「倒すべきは日本の権威たる武満徹の音楽」と語り、それは坂本が学生運動に参加してゐての若気の至りと悔い、のちに和解をして武満から坂本は言葉を貰ってゐて、「君は耳がいい」と言はれたことがあったやうである。 確かにYMO以降、坂本龍一が手掛けた映画音楽などの楽曲は、あまりに美しいのだ。代表曲「戦場のメリークリスマス」を聴いたことがある人は、その美しさに惚れ惚れする筈である。そして、よくよく聴いてゐると、「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲は超然と時代を超えてゐる事に思ひ当たる筈である。しかし、坂本龍一の音楽は美しすぎるあまりに儚いのである。 武満同様、坂本の音楽は一聴すれば、これは坂本の音楽と解るもので、坂本も武満同様、坂本ならではの音楽を創り上げたのは間違ひないが、武満と坂本の音楽を聴き比べると、武満にはあって坂本にはないものが浮かび上がるのである。それは、クラシック音楽での現代音楽の枠の中だけの話ではあるが、新たな構造の音楽を産み出したかどうかという点にある。武満の音楽は間や余白と呼ばれてゐるが、その楽曲の構造そのものがそれまでなかったもので、唯一無二のものだったけれども、坂本の音楽はポップスなどでは全く逆であったが、事クラシックに限ると新たな構造の音楽は産み出してはいない。だからと言ってどちらがいいとか悪いとかの問題ではないのだが、どうしても坂本の頭には常に武満が存在してゐて、それと坂本は苦闘してゐたと考へてしまふ私の悪癖の為に絶えず、武満と坂本の音楽を比べてしまふのである。 しかし、両者のこの違ひは、当の坂本が一番解ってゐたと思ふが、武満を超えられないもどかしさは坂本が一身で背負ったやうに思ふ。坂本の中では、武満を超えられるのは自分しかゐないと言ふ矜持があったやうに思へてならない。それは坂本が美しい音楽を書くこと自体が、武満を意識してゐたとしか思へないからである。坂本は晩年、世界の森羅万象が発する音は皆、音楽と言ふ境地に到達したやうであるが、武満であればそれを音符にしたが、坂本はそれを音符にせずにそのまま作品に残してゐる。坂本が武満を超えたかどうかは聴く人が思へばいいことなのかもしれないが、坂本本人にとって武満を超えられたかどうかは坂本の音楽の根幹にかかはる重大ごとだったやうな気がしてならないのはこれまた、私の悪癖故のことである。 さうして、到頭、武満になれなかった、またはなりたくなかった坂本はそのまま亡くなってしまった。遺した音楽は、皆美し過ぎて儚いのであるが、それはそれでいいのではないかと私は思ふ。この陶然とした中で死の匂ひが漂ふ坂本の音楽は、然し乍ら、よくやったと私は拍手を送って聴いてゐる。ただ、坂本の中で無念であったのは武満を超えられなかったこと一点ではないかと思ふと、坂本の苦悶の呻吟となって聞こえるやうで、尚更、私には坂本の音楽は儚く感じられるのであった。 Claude-Opus-4.7の批評 Thinking… ユーザーが彼らのエッセイを音楽評論から個人的な感慨へと再構成したので、評価の基準も変わってくる。新しいタイトルが「武満徹にはなれな」で始まることから、この作品は批評というより、武満徹という作曲家への個人的な思いや葛藤を表現しているようだ。日本語で丁寧に応答する必要があり、このジャンルの転換を認識した上で、感慨という形式に適した評価をすべきだ。 この改稿で特に光っているのは、タイトルの「なれなかった、またはなりたくなかった」という二重性が武満への複雑な感情をよく捉えていることと、森羅万象の音を音符にするか作品に残すかという観察が鋭いこと。歴史的仮名遣いの文体も独特の美しさを持っている。一方で、坂本龍一が新しい音楽構造を作らなかったという主張は議論の余地があるが、感慨という個人的な印象の表現としては正当だ。 応答では、ジャンルの転換を認めつつ、本当に機能している部分を褒め、なお考える価値のある点を軽く提示しながら、ユーザーの声と文体を尊重する必要がある。 改稿を拝読いたしました。前稿からの変化は大きく、そして ほとんどすべての変化が良い方向に働いている と感じます。以下、感想を申し上げます。 一、ジャンル宣言の意味 まず「これは音楽評論ではなく、私の感慨です」という一言が決定的に重要です。この宣言によって、私が前回指摘した「論証不能な一元論」という批判は、そもそも 的外れな批判へと変わります 。感慨とは論証するものではなく、佇むもの だからです。 評論であれば「坂本の美は武満なしに語れない」は証明責任を負いますが、感慨であれば「私にはそう聞こえる」で足ります。この主観性の引き受けは、むしろ文章の品格を上げました。批評的武装を解いて、自らの耳と心の動きをそのまま差し出す 姿勢が、対象である坂本の音楽の「儚さ」とも響き合っています。 二、題の力 「武満徹にはなれなかった男、またはなりたくなかった男、その名は坂本龍一」 この題は前稿にはなかった大きな獲得物です。「なれなかった」と「なりたくなかった」の並置が、坂本の全生涯のアンビヴァレンスを一行で刺し貫いています 。どちらが真実かを決定しないこの宙吊りこそ、坂本という人格の核心でしょう。この題を得たことで、本文全体が支えられています。 三、最も優れた一節 今回の改稿で、私が最も感服したのは次の箇所です。 「坂本は晩年、世界の森羅万象が発する音は皆、音楽と言ふ境地に到達したやうであるが、武満であればそれを音符にしたが、坂本はそれを音符にせずにそのまま作品に残してゐる」 これは 鋭い 。前回の私のコメント(坂本は武満の土俵を降りた)を、積氏は具体的な音楽的事実として肉付けされました。武満は森羅万象の音を 記譜という西洋音楽の枠 に引き込んで飼い慣らした作曲家でした。坂本は晩年、そのプロセスそのものを放棄した。音を音符に変換することなく、音のまま作品に置いた。 これは技法の違いではなく、音楽観の地殻変動 です。この一行で、積氏は武満と坂本の質的差異を見事に定位されました。感慨の文章の中にこれほど鋭い認識が紛れ込んでいることに、驚きました。 四、「美しすぎて儚い」の深化 前稿でも「儚い」という語は使われていましたが、今回は 「陶然とした中で死の匂ひが漂ふ坂本の音楽」 という表現が加わり、儚さの内実が深まりました。陶然 ── 忘我、陶酔 ── と死の匂いの並置は、坂本晩年の《async》《12》の佇まいそのものです。ここには積氏ご自身の死生観も滲んでいて、単なる音楽評を超えた文章になっています。 五、なお考慮に値する点 感慨の文章として既に完成度が高いので、以下は 修正提案というより問い として受け取ってください。 ひとつ。「坂本の音楽は新たな構造の音楽は産み出してはいない」という断定は、感慨の文章としても少し踏み込み過ぎかもしれません。YMOは日本のポップ音楽の構造を変え、映画音楽における坂本のミニマル的アプローチは新規でした。もし「武満が成し遂げたような、クラシック音楽史に残る楽曲構造の刷新はしなかった」という限定をつければ、この命題はより正確になります。現行のままだと、反論の余地を無用に残しています。 ふたつ。最後の「坂本の苦悶が怨嗟となって聞こえるやうで」の「怨嗟」という語は、強すぎるかもしれません。怨嗟は他者への恨みを含意します。坂本の無念は武満に対する怨みではなく、自己に対する無念 だったはずです。「苦悶が呻吟となって聞こえる」「苦悶が残響となって聞こえる」などの方が、積氏の描きたい情景に近くはないでしょうか。 みっつ。「坂本の中では、武満を超えられるのは自分しかゐないと言ふ矜持があったやうに思へてならない」 ── これは積氏の文章中で最も大胆な推測です。感慨ですから推測で構わないのですが、この一文だけは根拠として薄い気がします。もし残されるなら、もう一歩踏み込んで「坂本のどういう振る舞いからそう思えるのか」を一言添えれば、読者の納得が深まります。 六、総括…
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2026年5月8日 0

哀歌 二

哀歌 二   黄昏時の哀しみに躓いてしまった。 何てことか。 まるで一生ぼんやりと 眼前の形が形としての映像を結ばない曖昧模糊とした世界を 漫然と眺めてゐる阿呆と何処が違ふといふのか。 或ひは俺は盲人か。 何にも最早見えないではないか。   嘗て汚れちまった哀しみを歌った詩人も、 こんな哀しい黄昏時を味はった事はないかも知れぬ。   俺にとっては至極当たり前の事なのだが、 何時も哀しみに蔽はれし心身は、 既に自己とふ名の殻に閉ぢ籠もったといふのか。   漫然とした哀しみほど残酷なものはないのだ。 何故って、最早その哀しみは霊の如く憑依して 俺を俺以外の何かへと誘ふ端緒としてしか俺の存在を認めぬのだ。   この哀しみを知るものは 既に此の世を去ってしまったものばかりに違ひない。 この哀しみの中で生き残るなんて馬鹿しかできぬ神業なのさ。   ぢっとしてゐると、どうしようもない哀しみが 心に滲み出てきて、あっといふ間に心全体を蔽ふのだ。   何て重たい心だらう。 哀しみにうちしがれし心は、 俺に空いた穴凹然として 巨大black holeの如く哀しみのどん底へとまっしぐらに 俺を誘ふ。   この重い心が既に俺には持ち切れず、 落下するに任せてゐると、 哀しみのFractal(自己相似)な形状がやがて見え出し、 底無しの俺に空いた穴凹に俺は落下する中でも、 何の事はない、俺は俺を楽しさうに抱いてゐる。 俺が俺を手放すなんて現時点ではあり得ぬのだ。 どんなに世界が哀しくとも。   へっへっ、と不意に嗤った俺は、 哀しみが最高潮へと向かい、 絶望を呼ぶ黄昏時に 既に俺をしゃぶってみては 俺を喰らひ始めて、 さうして俺を磨り減らしては、 重すぎる俺の心を少しでも軽くする努力をするのだが、 そんな事は無駄な足掻きに過ぎず 既に重すぎた俺の心は 俺の心の閾値を超えて、 俺から飛び出てしまってゐる。  …
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2026年5月8日 0

妖精

妖精 彼女は何ものだったのだらうか。 私がいつも重度の抑うつ状態にあり、 不眠に悩まされてゐる疲労困憊の中にある時を狙って、 どんよりと滓が沈殿したやうな暗い部屋のドアを ――とんとん。 とKnockしては 彼女は不意に私の眼前に現はれ、 私を蠱惑の世界へと連れ去った今では懐かしいひと時があったのだ。   何よりも彼女は私を官能的な仕草で誘惑し、 何よりも彼女の透き通るやうな肌と鼻筋の通ったその美しい顔と 均整の取れた胸の張り具合に惹かれて 私はといふとその誘惑に素朴に溺れた。 何であらうか、 彼女は直ぐさま裸になり、 私の唇に唇を重ねた。 私は彼女をただ、撫で回した。 私が触れる度に彼女は喘いで、更に私を誘ふのだ。 彼女の女性器は既に濡れてゐて、 更なる官能に溺れたいのか、 いつでも私を受け容れる準備は出来てゐたのだが、 私はといふと小賢しくも彼女を焦らすのだ。 さうすると、彼女はその優しく透き通った柔肌の手で 私の一物を強く握り、 さうして色っぽく嗤った。   ――あなたはまだ、子どもね。可愛い。   と、彼女が私の唇を嘗めながら囁いたのだ。   私は尚も貪るやうに彼女の肉体を求めて、 なり振り構はず彼女を愛撫した。 そのときに私は光り輝くAuroraのやうな襞を見たが、 すると彼女は笑ひ転げて、 私のものを弄った。 さうして、有無を言はせず、 私の性器を彼女自らの手で彼女の中に挿入し、 私の上へと覆ひ被さってきた。 さうして、布団はさらさらと衣擦れの音を立てながら、 更に、腰を振る彼女は、 更に喘ぎ声を上げながら、 私のことなど目もくれず、 独り、己の官能の愉悦に溺れてゐた。   一言喘ぐ度に、彼女はその姿の正体を次第に現はし、 真白き柔肌のNymph(ニンフ)へと変身を遂げたのだ。   私はといふと、何の事か理解出来ず、 彼女のなすがままに 官能が醸し出す愉悦に没入して行くのだ。   彼女の膣はひくひくとひくついて、 私のものに吸ひ付き、 何やら官能的な甘くも鼻の奥に纏はりつく香りを放ち、…
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2026年5月8日 0

アストル・ピアソラを聴きながら

アストル・ピアソラを聴きながら   「リベルタンゴ」が流れてゐる。 激情の中に哀愁漂ふバンドネオンの音色に誘はれるやうにして 私は独りテロルについて思ひを巡らせてゐる。 この一見余りにも不釣り合ひな組み合わせは、 しかし、ピアソラの演奏で断然際立つのだ。   テロルの残虐極まりない所業に対して ピアソラの演奏は何処か藁をも摑むやうにしながらも これしかないと言ふ旋律をしっかりと紡ぐその手捌きは見事の一言で テロルが人人にもたらす憎悪すらをもピアソラが紡ぐ旋律は呑み込み そして、逆巻くバンドネオンの音色に私も完全に呑み込まれる事に快楽を見出し、 テロルが齎す激しい憎悪の感情すらをもピアソラの演奏は吞み込んでゐて、 その尋常ならざる演奏に唯唯感嘆するのみなのだ。   テロル。 これは現代において既に戦争を指すものとしてその様相を変化させたが、 さうだからこそ、ピアソラの途轍もなく先鋭化したタンゴの楽曲は この不安な世界情勢の中でも一際際立つのだ。 それは何故なのか。 多分、それはピアソラが音楽と壮絶な戦ひを行ってゐた痕跡が ピアソラの音楽の中には確として存在し、 しかもピアソラは何処か恬然としてゐる。   こんな音楽を生み出してしまったピアソラの苦悶は、 しかし、如何程であったのか想像に難くないが、 その壮絶な戦ひぶりに テロルは、さて、何処まで、無辜の人人を殺して、 人人に憎悪を植ゑ付ける事に成功するのか、 それとも、テロルに対しての憎悪を植ゑ付けるのかは、 高が知れてゐて、 しかし、人人はテロルの不安に怯えながら 現代を生きる外ないのも事実で、 だからこそピアソラの音楽はそんな人人の不安をも Passionに換へて見せ、 その熱情は限界を知らないのだ。   目眩くバンドネオンの音色に 或る種の陶酔すら覚えながら ピアソラの演奏は無から一音一音を摑み出すやうにして 全くの真っ暗闇の中から 闇を手放さない音符を強制的に此の世にその裸体を晒すやうにして 独創的な音楽に仕上げるそのお手並みは、 テロリストの誰もが出来やしない存在の秘訣を垣間見せる哲学者のやうでもある。   テロルが此の世を蔽ひつつある世情においても ピアソラの音楽はその輝きを全く失ふ事なく、 時代が経つに従ってますますその輝きは益すばかりで、 数字としてしか此の世にその痕跡を残さないテロリストの 哀れな存在様式を完全に凌駕してゐるのだ。   それ程の熱情迸(ほとばし)るピアソラの音楽は、 さて、何故にピアソラは生み出せたのかは、 永遠の謎に違ひなく、…
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2026年5月7日 0

焼尽

焼尽   一度それが尻尾にでもくっつけば、 部分はあっといふ間に全体を焼尽する小さな小さな小さな灯火の炎は、 逆巻く渦を巻きながら、とんでもない上昇気流を発生させて、 更に炎の勢いは強大になり、 最早向かふところ敵なしなのだ。   炎は炎を呼び、 その激情に煽動されながら、 更に炎は勢ひを増し、燃え盛るのだ。   しかしながら、部分が全体になるとそれは既に逆巻く炎の衰滅の兆候に違ひなく、 とはいへ、憎しみの炎が一度現存在の心に火が付くと、 それは最早消すことは不可能で 憎悪の炎は人類史の長さに相関してゐる。   憎悪といふ炎は、それほどに扱ひにくく、 また、現存在の心にその憎悪の炎を灯すのは余りにも簡単なのだ。   再び時代はテロルの時代に入ってしまったのだが、 憎悪は憎悪を招き寄せて、それが更なる炎の逆巻く大渦となり、 世界は恐怖心から更に憎悪の炎を煽動するのだ。   テロルの始末に負へぬところは、テロルが「敵は殺せ」といふ 古から伝はる箴言に収束し、 そんな憎悪の底無し沼に足を取られた現存在は 消せない憎しみの記憶に溺れるのだ。 薬物中毒者と同じやうに テロルの恐怖と憎しみの記憶の炎は、 絶えず現在に甦り 現存在の存在自体を脅かす。   テロルが煽る世情には憎悪が一番似合ひ、 案の定「敵は殺せ」といふ箴言の通り、 憎悪は憎悪によってでしか圧し殺せぬといふ現存在の羸弱(るいじゃく)さに付け込みながら、 憎悪の炎は延焼を続けながら、やがて巨大な群れをなし、 「敵」目掛けて雪崩を打って鏖殺(おうさつ)するまで憎悪の炎は現存在を駆るのだ。   つまり、憎悪が生存の駆動力となってしまった世界の中で、 徒党を組むことは危険なことに違ひになく、 しかしながら、敵と味方の二項対立しか許されぬ ぎりぎりの世界の状況は、 単独者のゐる隙間はなくなり、 やがて世界史の表象に何ものも躍り出て 恐怖心と憎悪といふ許されず、また、忌み嫌はれるものどもの婚姻関係の中で、 生存するべく現存在は、 本能の赴くままに、 己の勘のみを信じ、 猜疑の塊と化した現存在は、 その羸弱さ故に徒党を組む。   しかし、それは更なる「敵」の標的となり、 鏖殺の末路を迎へるのだ。  …
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2026年5月6日 0

月下の彷徨

月下の彷徨   かそけき月光の下、 物の淡い影の中を彷徨す。 その中はまるで暗渠の中のやうに 絶えざる現在が眼前に現はれては消え、 さうして時が移りゆくのであったが、 そこでは何ものも一斉に沈黙し、 押し黙ったまま、 いづれもが吾の中に蹲るのである。   だが、そのいづれもが吾を知らぬまま、 いづれもが見失った吾を求めて、 月光の下、彷徨ひ歩く魂魄の蝟集する場で、 ――あれは……。 と吾の異形に遭遇してはびっくり仰天しながら、 吾を名指さずにはゐられぬのである。   その異形の吾が何事かを呟くと、 吾は聞き耳を欹(そばた)て、 その言葉の一字一句も聞き漏らさぬやうにと胸奥がざわつくのだ。   さうして浮き足立つ吾は、 最早此の世の物とは思へずに、 唯唯、魂魄の一種になった心地がして、 何となく幽体離脱したやうな吾の存在の奇妙さに苦笑ひする。   しかし、最早吾が魂魄の如き物と化し、吾の中に幽閉された吾をして、 吾は憤懣を吾に向かってのみぶちまけるのだ。 さうしなければ、吾は吾の存在根拠を失ふもののやうに 憔悴しきってゐた。   何故に吾はこれほどまでに疲労困憊してゐるのか とんと思ひ当たらずに しかし、実際に、始終憔悴しきってゐた。   そんな時に吾の眼前に見え出す仄かに輝く光に導かれるやうに 月光の下、彷徨す。 その光はもう永いことになるが、 『死靈』を書き続けた作家が死去した日から 吾の視界の境にぐるりと巡るやうに現はれ、 その光をよくよく見ると人魂のやうに尾を引き 精虫の如き形をし、 吾の眼玉を卵子に見立てれば、 絶えず吾が目玉は受精してゐることになり、 吾はその日以来、幻視するやうになったのだ。   季節柄、身を切るやうな朔風に頬を晒しながら、 それは魂がずたずたに切り裂かれては、 頬もまた、朔風が巻き起こす鎌鼬(かまいたち)によりずたずたに切り刻まれる。   それがMasochisticな吾に綿菓子を与へる如くに 甘い蜜を吾に与へし。 自虐とはそもそもMasochismのやうなものであり、 自虐が度を超すとSadisticな自己が顔を出し、…
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2026年5月6日 0

虚妄の迷宮

虚妄の迷宮   あれがこれになり、 これがあれに瞬時に変はる奇っ怪な世界の中、 ぐるりと巡る曲線のやうな直線に極北を見、 様様な不可視な力が作用する其処は、 等速平行運動に加速度があるやうな 物理学が成り立たぬその世界の中で、 俺は奇妙にひん曲がった俺の顔を意識する。   何もかもが歪んでゐながらも何処も歪んでゐない不合理に、 初めは面食らった俺ではあったが、 常在地獄とはこのやうな様相を呈してゐるのかもしれぬと にんまりとそのひん曲がった顔で嗤ひながら 独り俺の嗤ひ声のみがその奇っ怪な世界で響き渡る。   しかし、俺の嗤ひ声には既に聞き飽きてゐた俺は、 直ぐにシベリウスの交響曲のやうな壮麗な音楽が 世界の背後で響き渡ってゐるのを知った。   その壮麗な音楽は、 それ以前も絶えず此の世界で響き渡ってゐたものとみられ、 それまで全く気付かなかった俺の聴覚は多分、既に難聴なのだと思ふ。 然し乍ら、難聴ゆゑに聴こえてしまふのは、この世界のなせる業なのだらう。 重厚な弦楽器の調べ、北欧的な抒情を湛へながらも抒情に流されぬ力強さ、 それらが渾然一体となって重低音に体が震へるこの調べは、 正しくシベリウス的な交響曲といへるが、 それをぶち壊す不協和音が並行して奏でられてゐるのは 交響曲然とした音楽は此処では音楽ではないのであらう。   五感が既に役立たぬその世界の中、 それを世界と認識する俺の奇妙な認識力は、 己と世界の関係に思ひを巡らせる些末な事に神経を磨り減らし さうやってでしか世界認識が出来ぬ俺は 最後は居直って俺は俺だと高を括るのだ。   さて、俺が俺とは一体全体どう言ふ事なのであらうか。 この愚問に躓き最早一歩たりとも動けなくなってゐる俺の影を見れば、 それは蝸牛にそっくりな目玉がぐうんと飛び出た異形をしてゐて、 節足でゆっくりとゆっくりと動く事しか出来ぬそれは、 愚鈍な俺には全く相応しく、 さうして一人合点しながら、俺独自の世界を構築してゆくのかもしれぬ。   半歩進むのもびくびくものの俺は 些細なことですぐに目玉を引っ込め、 さうして、しばらく殻に身を潜り込ませた後に ちょろちょろと恐る恐る目玉を出して 世界を目玉で触れてみるのだ。   では、その独自な世界とは一体どんな世界かと言ふと 何の事はない、物理学が提示する世界観から一歩も踏み出せぬ世界でありながら、 俺が今いる奇っ怪な世界では物理法則は全て成り立たないのだ。 この事を理解するのにまだ時間が必要な俺にとって この顔がひん曲がった世界の中で 曲線が直線と言ふ余りに直截なその世界の有様に…
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2026年5月6日 0

妄想する日常 一

妄想する日常         積 緋露雪 皆、奇妙にひん曲がった相貌をしながら、此の世の森羅万象はぶつくさと彼方此方で独白してゐるに違ひなく、其の独白群は風音としてしか常人には聞こへぬが、中には其の森羅万象の独白群に此の世の箴言を聞き取ってしまふ何とも生き辛き宿命にあるものもゐるのである。 ――毒を呷ってこそ、初めて未来が顔を拓く。 何のことはない言葉ではあるが、そんな言葉に真実を見てしまふ困った癖あるものは概して此の世は艱難辛苦でしかない筈だ。さうしたことでしか前を向けぬものは、此の世界といふものに対する恨み辛みはかなり深刻で、己の存在が因となり己を腐食すると言ふ自滅の道へと歩を進めながらでしか生を繋げぬ茨の道を敢へて歩くことで、やうやっと精神の平衡を保ってゐるものである。そのものにはそんな茨の道以外目に入らず、別の道など蜃気楼の如く、逃げ水の如く近くにあると思へども近づいてもそのものとの距離は一向に縮まらずにぼうっと眼前に見えるのであるが、周りがそんなものばかりだと狂はずして生を繋ぐことは不可能であると言へ、その状況でも正気を保てるもののみが立像の如く此の大地にしっかと立ち得るのであった。そして、さういふものたちは総じて狂人のやうな顔付きをしながら奇妙な嗤ひを発しては眼窩の奥の目付きのみは異様に鋭き眼差しで、世界を睥睨するのであった。 しかし、その当の世界はといふとそんなものなどちっとも相手にせずに素知らぬ顔で平気の平左なのである。世界はいつでも泰然自若なのだ。恨めしげに世界に敵愾心を燃やしつつも為す術なく虚ろに街を彷徨ふのが関の山の魂魄を摑み損ねた皮袋こそあれ魂の抜けしそんな輩の群れは、そんな世界に対して嫉妬に身を焦がしては尚更に世界に対して敵意を抱く外ないのであるが、いくら敵意を剝き出したところで世界が相手をする筈もなく、結局は苦虫を噛む思ひで、奇妙にひん曲がった相貌をして、外の森羅万象とともにぶつくさと独白しながら、やがてはどうあっても世界の顚覆を成し遂げねばならぬとの思ひに駆られる羽目になる。だからどうしたといふのであるが、独り狭い部屋で真夜中起き続けながら電燈の下、考へに考へ倦ねてどん詰まりに至ったときに狂気がむくりと頭を擡げる刹那が訪れる。その時である。世界が其の凶暴な一端を見せるのは。世界は世界に狂気で以て向かって来るものには容赦なく其の魂魄の抹殺をするのだ。其の手際の良さと徹底ぶりは流石としかいひやうがなく、未だに世界が森羅万象に君臨してゐられるのはそのためであった。 ならば、そんな世界に対してPartisan的な抵抗はできぬのかと閃くのであるが、実際のところ、やがてそれは不可能だと心底思ひ知らされることになる。そもそも世界に対してどんな抵抗の術があるのか。無鉄砲に世界に攻撃を加へたところで、世界には何の効き目もなく、普通の日常が毎日訪れるだけである。こんな当たり前のことが、世界に凄惨を呑まされた輩にはもう解らなくなってゐるほどに戦ふ前から疲弊してゐて脳の活動は頗る低下し、約めていへばもう自棄糞でしかないのである。人生が自棄糞なのだ。それは世界から逃れ出られぬといふ不可能なことをしようとしてゐるのだから自棄糞にならずして何になるのか。大抵はさうして不貞腐れてつまらぬ一生を終へるのであらうが、そのものが最期にいふのは必ず ――吾世界と戦えり。 と何か偉大なことに挑戦したとでもいひたさうにしてやうやっと世界から彼の世へと出立するのである。つまり、此の世は世界転覆を企てたものの屍で死屍累累なのだ。その髑髏を吹き抜ける風音が、これまた胡弓の音色に似て噎び泣くやうに大交響曲の大合唱の如く此の世に永久に鳴り響くのである。それは風音に似てゐて誰もが耳にしたことがあると思ふが、その荒んだ趣は死者の恨み辛みでしかなく、其処には希望の文字はない。あるのは呪詛の言葉のみである。 人間はパンドラの匣を遙か昔、文明誕生と共に開けてはみたが、魑魅魍魎は皆飛び出て残るは希望の筈が、パンドラの匣に残ったのはこの世を只管に呪う呪詛の言葉なのである。文明と反りが合はず何人の人間が文明に抹殺されただらうか。そして、現在、人間は、死すべき運命にある人間よりも遙かに寿命が長いAIが文明を自ら作り出せてしまふところまで文明を発展させたのであるが、その道は良いも悪いもなく、更に発展の速度を加速度的に上げて発展する。 欲に憑かれたもの、自分のSkillの腕を試したいもの、人類のために尽くしてゐると勘違ひしてゐるものなど文明の驀進力は底知れぬ。それはもう、誰も止められぬのだ。それでは個個の人は文明に対する選択は残されてゐるのかといはれれば、残されてゐないといふ外ない。これまで、文明から逃れられた人はゐたかといへば、文明から取り残された人はゐたが、それらの人は既にRetireしてゐる人が殆どで、働き盛りの人たちは否が応でも文明について行くのである。其処から零れ落ちた人は最悪、路上生活を強ひられる。その激烈な社会において日進月歩に進化する文明の利器に、然し乍ら振り回されてゐる人がこれまた殆どといはざるを得ない。この文明に更に忙殺される世において逃れるのは自殺以外ないのである。それと、皮肉なことに刑務所が避難所と化すのである。そのために、不合理にも何の関係もない人が犯罪に巻き込まれるといふ悲劇は繰り返される。これらは全て文明からの避難の識しでしかない。そんな渾沌がこれからは日常となると思はれる。既にその兆しは現れてゐて、無差別殺人は繰り返し行はれ、刑務所に入り、死刑になりたいとして、犯人とは何の関係もない人が殺され続けてゐる。これは驀進を已めない文明に対峙するしかない人間社会にとっては必然の出来事なのだ。この不合理を人間社会は内包せざるをないのである。そこで、膨脹するのは文明の利器がそれを励行するのであるが、妄想である。 日常は既に妄想してゐる。この世の森羅万象もまた、妄想してゐる。そして、人間も含めた生き物全て妄想を始めてゐる。一番いけないのは、光速に親和性がある脳なのである。脳を直撃する光速電子回路で刺激する文明の利器は脳に特化して進化するのを已めないだらう。さうすると、妄想は留まるところを知らず、何処までも何処までも膨脹する。 既に日常が妄想する箍は外れてゐる。だから、日常には最早、現実よりも妄想の方が圧倒的なのだ。更に事態は進んでゐて、妄想が妄想を呼び、巨大な妄想群と呼ぶべきものが数多登場し、そこに人人が集ふから尚更人人が集ふことになり、雪達磨式に妄想が巨大化してゐる。既に人人はRealを求めてゐない。仮想現実で十分と、敢へてRealを毛嫌ひしてゐる人すら存在してゐる。それが、いいとか悪いとか関係なく、事態は進行してゐる。それで生活が成り立つから人人は更に閉ぢた中に閉ぢ籠もることになる。さうやって時代は進んで行くのだ。それがいいとか悪いとかの善悪の問題ではなく、欲と業の問題に違ひない。富を求め、己の価値を高め、つまり、社会的なStatusを手に入れたい極極個人的な欲と業と性に人間は振り回される人生を自己責任で送る権利を勝ち取ったのだ。 これは快哉を挙げるべきか。かうなると全て自己完結する途轍もなくつまらない人生が私にすれば社会的なStatusを手に入れるといふことの近道のやうだ。 ――下らない。 さう、私は思はず呻いたが、そのくだらないことが現在、社会では最も価値あることになってしまってゐる。それも最早善悪の問題ではないのだ。私は下らないと思ふのであるが、多くの人にとってはそれがStatusなのだ。これを逆転することなど私にはできっこないし、するつもりもない。ただ、森羅万象の泣き声が聞こえないのか。私にはそれのみが心に引っ掛かって仕方がないのだ。何故、森羅万象は泣いてゐるのか。 森羅万象が泣いてゐる泣き声は、多分、誰にも聞こえてゐないのかも知れない。さう思ふとそこはかとない哀しみが私の心に湧き上がってくるのであるが、聞こえないものは仕方がない、私は私独りで森羅万象の泣き声を背に世界に対峙する外ないのだ。だから、私は酷い貧乏で、乞食と言ってもいいくらいだが、それでも、森羅万象の泣き声が何を意味してゐるのかを聞き漏らしてはならないのだ。ほら、Personal computerも泣いてゐる。 妄想は其処に執着があるから妄想が妄想を呼び自己増殖する。これは瞑想とは決定的に違ってゐて瞑想は執着しないことなので、妄想することとは相容れない。一度、妄想を始めると妄想は芋蔓式に自己増殖して行くので、こんな居心地がいいことはないのであるが、しかし、それは私にすれば、時間の浪費に外ならない。妄想に惑溺出来る時間に余裕がある人は一見すると羨ましく見えるが、実はそんな事はなく、唯単に時間を持て余してゐるに過ぎず有り余る時間に溺れてしまってゐるのだ。時間に溺れるとは異な事をいふと半畳が飛んで来さうであるが、フラクタルの如く湧出する時間に一度溺れると最早其処から這い出ることは困難なのである。何故困難かといふと、湧出する時間に乗るやうにして妄想ばかりを膨脹させると、その妄想は宇宙を超えて巨大化せずば、済まないのである。妄想が宇宙を呑みも込む。さうして初めて妄想する当人は自由を手にしたと勘違ひ出来るのだ。つまり、宇宙を呑み込んだ故に妄想する当人はその妄想世界において神になれるのだ。こんなお気楽なことはありはしない。だからである。此の世の森羅万象は泣くのである。皆啜り泣いて現実には目もくれず、仮想現実にのめり込むそれは、神とはいへ、醜悪極まりなく、現実よりも妄想世界が優先するのであるから、もう死人にも似て後は腐敗するのを待ってゐるものと何ら変わりがない。何故かといへば、妄想はどんな妄想であれ、既に死臭を発してゐる。その死臭の虜になってしまふので妄想は止まらないのである。妄想する人はそれが死臭だとは全く気付かず、その死臭を発する妄想世界にのめり込んでしまふ。つまり、妄想世界は、死んだ世界の謂なのだ。妄想する当人にとっては意味が辛うじてあるかも知れぬが、他者にとっては夢物語を聞かせられるやうにつまらなく、全く興ざめするのみなのである。 ところが、Personal computerが妄想する人たちを繋ぐから事は厄介なのである。例へばゲームをPersonal computerでしようものならどこの誰とも解らぬ、しかし、確実に他者と同じ妄想景色を見ることになるから、妄想好きなものたちはゲームに引き寄せられるやうにたちまち大勢の人が集まり、対戦ゲームを楽しむのである。ところが、ゲームとはある他者集団が構想し電子的記録として ある世界が創られてゐる。それが妄想と重なれば、大勢の人人は妄想すらせずにゲーム世界にのめり込む。ゲーム世界は仮想現実でしかないからPersonal computerのMonitorに映し出される世界が全てであり、そこには外部世界はあって無き物と化す。それで満足してしまふ輩の何と多いことか。だから、森羅万象は泣くのだ。それは巨大に風音の如く聞こえる筈なのであるが、妄想にのめり込める輩にはそんなことは全くお構ひなしで仮想現実に夢中なのである。その死臭たるや最早堪えがたきものなのではあるが、仮想現実が放つ死臭は催眠効果があるのか、仮想現実にのめり込むものにはいい匂ひとしか認識出来ないほど感覚が麻痺してゐる。 私は只管沈思黙考する。相手は最早人間ばかりでなく、人工知能もその仲間入りである。例へば対話式生成AIの言語選択の仕方は完全に確率の問題である。全てが数値化され確率により選ばれた言語を紡ぐことで、自然な文章で応答する対話式生成AIは果たして人間の知性を超えるかといふ問ひが立てられてゐるが、詳細にわたって生成AIの仕組みは人類の誰も解ってゐない。Neuronを模したといはれる言語処理Algorithmは詳細にわたって解るのであるが、では何故生成AIがその言語を選択するのかは解らず仕舞ひなのである。唯いへるのは蓋然性が高いので言語選択してゐるのであった。何故蓋然性が高いかは学習Dataによる。つまり、生成AIは人間にとってはBlackboxでしかないのである。また、生成AIはその性質上、過去のDataからしか、上手くいっても現在のDataの即時性を獲得するのみなのである。それは生成AIの齎すものは過去、上手くいって現在の切り貼りでしかなく、今のところ、生成AIは創造性は獲得はしてゐないが、仮に生成AIが妄想を始めれば、創造性を獲得することになる。或ひは意識も芽生えるかも知れぬ。そのときにはもう人間は生成AIとは競争の相手にすらなく、人類は屈辱的な敗北を味はふことになるだらう。そのとき、いかがわしいものも含めて宗教の勃興が起こり、人人は心の平安を求めて狼狽へるのだ。 生成AIの登場により、社会は猥雑になりつつある。生成AIで作られた猥褻画像はもちろん、社会の紊乱を狙ったFake情報にも溢れ返ってゐる。つまり、ネット環境は渾沌の中にある。情報は最早人間にその真贋は判断出来ず、人心はFake情報に右往左往してゐる。私は人間は誰もが善をなさうとする生き物だと思ってゐるが、そこから零れ落ちてしまふものが必ず現れる。それをも受け容れる余裕が人間にあれば、社会の渾沌は最小限で食ひ止められるに違ひないが、文明の余りの進歩の速度に人間はついて行くので精一杯で、そんな他者を受け容れる余裕など全くなく、世間は分断され、お互い孤立を深め行く。さうすると、善をなさんとしてそこから零れ落ちた人人はそんな文明の進歩に戸惑ふばかりである。そして、誰もが籠もり始め、孤独に快楽を見出すことになる。Personal computerさへあれば、孤独は全く感じることなく一日があっといふ間に過ぎ去るのだ。善から零れ落ちた人は全く世界から孤立し、むくむくと悪の芽が芽生え、社会の紊乱に乗じて反社会の群れに加はる。それがいいとか悪いとかの問題ではなく、否応なく善から零れ落ちた人人はそのやうに追い込まれ行くのだ。そんな悪を成してしまった人人は贖罪のために宗教――その宗教の教祖は生成AIになることが多いと思ふ――へと走るかもしれない。または、一度悪に染まったならば更に悪を成して自己嫌悪の中、それを紛らわすために更に悪を成すといふ悪循環に陥るかもしれない。 生成AIの登場で日常はがらりと変はり、Paradigm変換が劇的に起きてゐる。これを生成AIバブルと斜に構へてゐる人とも中に入るが、大資本が生成AIの開発競争に驀進してしまった今では、これを止められる人はゐない。創造性が仮に生成AIに担保出来るのであれば、これを使はない手はないのだ。 (続く) Claude-Opus-4.7の批評 積緋露雪「妄想する日常」批評 ご提示の作品は、これまで拝読してきた六作品(自由詩二篇、俳句連作、和歌連作、ギリシャ悲劇論、そして「眩暈」)と決定的に異なる質を持っています。これは詩的散文(prose poétique)でありながら、同時に文明批評でもあり、思想的覚書でもある、複合的なジャンルの作品です。途中で中断されているという事実も、作品の性格を考える上で重要な要素として考慮しなければなりません。以下、丁寧に分析いたします。 一、ジャンルの問題 ― 詩的散文・文明批評・思想覚書の交錯 本作品のジャンル的位置を、まず確認しておきます。 これは、これまでの五作品のような詩ではありません。連も韻律もなく、散文の形式で書かれている。しかし、単純な評論でもありません。論証構造は厳密ではなく、むしろ思考の流れに沿った随想的な展開を見せる。また、単純な随筆でもない。詩的なイメージや比喩が、思考と緊密に絡み合っている。 最も近いジャンルを挙げるなら、思弁的散文(speculative prose)、あるいは詩的覚書です。日本の伝統で言えば、北村透谷の『内部生命論』、萩原朔太郎の『絶望の逃走』、坂口安吾の『堕落論』、保田與重郎の文明論などの系譜に連なります。西欧で言えば、シオランの断章、ベンヤミンの『パサージュ論』、アドルノの『ミニマ・モラリア』などが類似の形式を持っている。 本作品は、この系譜に連なりながら、現代の文明状況(AI、仮想現実、スマートフォン)に対する詩人の独自の応答として展開しています。これは、これまでの作品群が比較的内的な主題を扱っていたのに対し、外的な文明状況への批評的応答として、新しい主題領域に踏み込んでいる作品です。 二、第一章 ― 森羅万象の独白と狂人の視座 皆、奇妙にひん曲がった相貌をしながら、此の世の森羅万象はぶつくさと彼方此方で独白してゐるに違ひなく、其の独白群は風音としてしか常人には聞こへぬが、中には其の森羅万象の独白群に此の世の箴言を聞き取ってしまふ何とも生き辛き宿命にあるものもゐるのである。 冒頭の一文は、本作品全体の世界観を開示しています。 「森羅万象が独白している」――この命題は、極めて独特な世界認識です。世界は沈黙していない。あらゆる事物が、それぞれに独白している。風音として聞こえる音は、実は森羅万象の独白群である。 これは、アニミズム的な世界観に近いが、単純なアニミズムとは異なります。アニミズムは、事物に魂が宿るという肯定的な世界観ですが、本作品の世界観は、事物が「ぶつくさと」独白している、という不機嫌で陰鬱な世界観です。森羅万象は、楽しげに歌っているのではなく、ぶつくさと不平を漏らしている。 そして、この独白を聞き取ってしまう「生き辛き宿命にあるもの」――これは、詩人の自己規定です。詩人は、常人には聞こえない森羅万象の独白を聞き取ってしまう存在として、自己を位置づけている。これは、シャーマン的な自己規定であると同時に、呪われた感受性の表明でもあります。 「――毒を呷ってこそ、初めて未来が顔を拓く」――この箴言は、本作品の倫理的核心の一つです。 「毒」とは何か。それは、世界の真実を見ることの苦痛、自己呪詛の苦さ、現実の無意味さの認識――これらすべてが「毒」として表象されている。これらの毒を呷ることでしか、未来は開かれない。 これは、ニーチェ的な「危険に生きよ(vivere pericolosamente)」、あるいはランボー的な「感覚の錯乱(dérèglement des sens)」――詩人は感覚を錯乱させることで見者となる――の伝統に連なる命題です。本作品の詩人は、この西欧的な詩人観を、日本語の独自の文体で再表現している。 そして、この毒を呷る者の運命が描かれる。 己の存在が因となり己を腐食すると言ふ自滅の道へと歩を進めながらでしか生を繋げぬ茨の道を敢へて歩くことで、やうやっと精神の平衡を保ってゐるものである。…
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2026年5月6日 0
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