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Tag: 創作

思索に耽る苦行の軌跡

剔抉(てっけつ)してみたが

剔抉してみたが   興味本位で《吾》を剔抉してみたが、 抉り取られたものは虚でしかなかった。 それは当然の事、 《吾》がさう易易と私に囚はれ物に為る筈もない。 その摩訶不思議な《吾》を以て 私が私として此の世にあるその礎が、 理解可能なものの筈はない。   夢幻空花(むげんくうげ)なる此の世の様相は、 平家物語の 「諸行無常の鐘が鳴る」 といふやうな言葉がぴったりと来、 そんな世に生きる《吾》といふ化け物を 有する私といふ存在は、 その時の気分で剔抉したくらゐで その正体を現はす筈も無く、 そのぬらりとした感触のみを残し 私を呑み込まうとしてゐるか。   不図耳を澄ますと、辺りには能の『井筒』の調べが流れ出し、 益益諸行無常の哀しみに 私は溺れ、深く《吾》に沈潜して行くのであった。 Claude-Opus-4.7の初見の批評 Thinking… I’m looking at a classical Japanese poem that explores the paradox of self-examination—the speaker attempts to dissect their own essence out of curiosity but discovers only emptiness, drawing on…
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2026年5月12日 0

独断的存在論私論

独断的存在論私論   もしかしたならば高村光太郎の言葉だったかも知れぬが、 「私の前に道はなく、私の後には道がある」 といふやうな内容の言葉に、一時期惑はされてゐたが、 去来現(こらいげん)が因果律を持つのは、 現在のみといふことを知ってしまった後、 過去と未来は混濁してゐて、渾沌としてゐるのを 無理矢理私の頭蓋内にある五蘊場が因果律の筋を通してゐるだけだったのだ。   此の世は、まず、渾沌としてゐて、 秩序が表はれるのは、偏に私の存在によるのだ。 とはいへ、世界にとって私の存在なんぞどうでもよく、 その狭間で、現在に留め置かれ続ける運命の私は 無理矢理に世界に秩序を当て嵌めて やうやっと存在の居心地の悪さを遣り過ごすのみの私は、 絶えず存在に押し潰される危ふさにあることを意識しなければ、一時も生き残れぬ。   ――科学は?   といふ自問を発する私の胸奥に棲む《異形の吾》は、   ――ふっふっふっ。   と嘲笑するのだ。 それは、科学者は世界の癖、つまり、法則を求めて厖大な研究を行ってゐるのだが、 世界に癖を与へてゐるのは偏に私が此の世に存在するからに過ぎぬのだ。 私が存在しなければ、世界は相変はらず渾沌のままで、 それで世界は満足なのだ。 世界に無理矢理秩序を押しつける現存在は、 終始己のことが可愛くて仕方がないために、 さうしてゐるに過ぎぬ。   そして、私の存在が何時も独断的であるのは「先験的」であり、 独断的でない私なんぞはそもそも存在する価値すらないのだ。 だが、しかし、世界は渾沌としてゐる故に何でも慈悲深く、 そして、遍く受け容れるため どんな存在も此の世に現れる蓋然性を残してゐる。 然し乍ら、世界に現れたもの全てが生き残るわけではなく、 生まれて直ぐ死するもの数多で、 世界はそれを傍観してゐる。 それ故に世界は或る意味冷徹でありながらも慈悲深いといふ 二律背反の顔を持ってゐて、 世界もまた、それによって懊悩してゐるのは間違ひない。 さうでなければ、幾ら独断的とはいっても 《吾》といふ存在は一時も世界にゐられぬ。   つまり、何ものも存在する事を拒否せずに受け容れる度量がある故に 世界は世界なのだ。   そして、その懊悩する世界も己に不満故に、諸行無常の中に森羅万象を置き、 時を移ろはせては二律背反を止揚した「完全な」世界を欣求して、 一時も変化することを已めぬ。   その変化に法則を見出した人間は…
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2026年5月11日 0

実念論

実念論   ――ほら、其処にも念が彷徨ってゐる。   さうなのだ。此の世には「先験的」に念が存在してゐて、 何時存在物へと転生するかその時期を見計らってゐるのだ。   ――初めに念ありき。   これが、此の世の誕生を担保する言なのだ。   ――何を馬鹿なことを。   と、誰もが半畳を入れるのだが、 実念論はそんな半畳などに全く意に介さず、 此の世における所与のものとして実在してゐるかのやうに必ず存在してゐる。 何故全く意に介さぬのかといふと 念なしには存在が成り立たないからである。   ――埴谷雄高が説いたやうに念は光よりも速く、念速でこの世界に伝播する。   誰も、実念論に反論出来ぬのだ。 何故なら、誰もが念じられることからも解る通り、 念の存在を否定できる輩はない。 しかし、それでも念なんて訳の分からぬもので 存在論を穢すことを嫌に嫌ふ輩は存在する。   ――当然だらう。そんな馬鹿な話を信用する輩なんぞ此の世にゐやしない。   本当だらうか。 では何故、生物は死ぬのだ。何故、生物は生まれるのか。 生死の因果すら説明出来ぬ論理的な存在者どもは一体何なのか。 その生死を「偶然」に帰す愚鈍な論理は今更言ふに及ばず、 己の存在は「偶然」に生まれ、「偶然」死すと言ふのであれば、 生死を超越する存在をそれは示唆してゐるに過ぎぬ。 全てはギリシャ悲劇のやうに「必然」にもの事が進むとするならば、 仕舞ひには神の存在なんぞ必要なくなり、 基督は磔刑から永劫に解放され、 現存在は現存在のみで自立する存在となるに違ひない。 念を排除したからと言ってその現存在は存在なのか。   ――此の世は必然でなければ到底眼前で起きてゐる凄惨な悲劇を受け容れることは不可能なのだ。   ――何故?   と、この下らぬ自問自答に聞き耳を欹てて、 ぢっと聞いてゐる存在が無際限にゐるのを繊細な存在は既に気付いてゐる筈だ。 此の世は全てにおいて必然でなければ、 どうしてその余りに不合理な有様を受け容れると言ふのか。   此の世は不合理であることは「必然」で、 また、無残に生き物が死んでゆくのも必然なのだ。   偶然は必然を受け容れられぬ者達の断末魔の叫びでしかない。  …
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2026年5月11日 0

渇仰する

渇仰する   何をそんなに渇仰する必要があると言ふのか。 既に俺はかうして此の世に存在し、 そもそも俺は己の存在を自明とし、 ふっ、それよりも恬然と此の世を満喫してゐるのに、 何を渇仰するものがあると言ふのか。   ところが、一度、己に対して疑念が生じると、 疑心暗鬼に陥り、 漆黒の闇の中、何にも判然とせず、 手探りで一歩一歩そろりそろりと歩くやうにして 脚を目として進むといふ視覚の不能にびくびくしながら 俺は俺に対しての不信感を追ひ払ふことが出来ずに、 何時も闇に佇むだけの俺のことを嘲笑するのだ。   これはこれで楽しくもあるのだが、 この自己矛盾には既に辟易してゐて、 常に俺は、俺を嘲笑する側の俺に為れないかと その存在の有り様を渇仰する。   俺が渇仰する俺とは、 さて、それは此の世において信用出来る存在として つまり、基督や釈迦牟尼仏陀のやうな存在として 今生の苦を一身に受けながら、 それでゐて恬然とし、 何処吹く風かと言ふやうに 俺の存在なんぞにかまける暇があったなら、 他の苦に共感し、それを取り除くことを使命として 身を粉にして世界に尽くす無私の状態こそが 俺の渇仰して已まぬ存在の正体かと言へば、 そんなことは全くない。 それとは裏腹に、 基督も釈迦牟尼仏陀も、 人間を既に見捨ててゐて、 業に塗れた人間からの解放を つまり、現代においても信仰の対象として此の世に縛り付けてゐる その浅ましき人間の業からの解放を切に願ってゐるかもしれず、 彼らの遺した言葉にかまけて人間然とするのは 現世を生きる人間の傲慢といふものだ。   それでは人間は範とする人間像が描けぬと、 この二千年余りの間、 あり得べき人間の有り様を 全く描くことなく、 全て、基督や釈迦牟尼仏陀などにおっ着せて、 自身は現世利益ばかりを渇仰し、 今生を「旅」に模して恥ずべきことばかりを行ってゐるその無様な姿を 「俺は俺だ」の一言に全て集約して、 満足してゐるその醜態は、 何をか況やである。   人間は今生において、 基督や釈迦牟尼仏陀などの先人の足跡を軽軽と乗り越えた存在を 渇仰せずして、何で生きてゐるのか。…
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2026年5月10日 0

思弁的超越論私論

思弁的超越論私論   気配すらをも潜めし《それ》は、 自らの意思、否、《念》において 「先験的」に《吾》は存在すると自覚してゐて、 カント曰くところの「物自体」はカントの誤謬かもしれず、 物自体は全てかっと目を開き、 世界を睥睨してゐる存在として 此の世界に確かにある筈だ。   ――世界が本質に先立つ?   馬鹿な、 世界にとって《吾》の存在なんぞ、 どうでもよく、 《吾》が死なうが生きようが窮極的には知ったことではなく、 全く的外れなそんな問ひに対して 物自体は ――ひっひっひっ。 と、嘲笑してゐる筈である。   思弁的超越論において、 《吾》の問題も《他》の問題も 幽霊の存在を認識するかしないかの違ひでしかなく、 そんな幽霊のやうな世界に対して、   ――世界が本質に先立つ。   などと言ふ馬鹿げた問ひを発する此の《吾》は、 まだ、これまで一度も「私」とか「主体」とか己のことを呼んだことはなく、 世界自体も《吾》同様、己の有り様に困惑してゐるこの現在といふ時の中で、 過去と未来は反転に反転を繰り返し、 既に未来と過去は渾沌としてゐるのが 世界の自同律の本源であり、 唯、現在のみにおいて因果律は辛うじて成り立つのである。   ――何、主体と客体の問題は?   と。これこそ笑止千万。 何故なら、そもそも主体と客体の腑分けの仕方が間違ひの元であり、 世界はそんなに単純に出来てゐない。   また、主体絶対主義のやうな主体と客体の位置付けが間違ひであり、 主体は羸弱な存在でしかなく、 此の世界に毅然として屹立するが如くに主体は組成されてゐない。   主体にとって何よりも先立つのは感情であり、 例へば尺取り虫が次の一歩を躊躇ふとき、 それは主体の意思に先立ち、 感情がその一歩は危険であることを感じてのことである。 何よりも先立つものは意識とか認識とか思考とか考へとかでは決してない。 つまり、デカルトは間違ってゐるに違ひなく、 デカルトに対して否と言へない現代人は、 既に思索において過去の哲人の足下にも及ばず、 cogito,ergo…
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2026年5月10日 0

端座する

端座する   俺の振る舞ひに決定的に欠けてゐる礼儀は ここぞと言ふ時には全的に大仰なその形式に則って 先づは端座するべきことなのだ。   例へば他人を前にして、 ぴんと張り詰めた緊迫感にしかと身を引き締めて対峙するには 端座することが他者に対する最大の礼儀なのだ。 それすら出来ぬと言ふのであれば、 俺は俺であるその根拠を失って 茫然自失の態で俺の内部を罵倒するのみ。   端座せぬその居心地の悪さと言ったならば、 跋が悪いといふ言葉があるやうに 他者を前にした緊迫感に押し潰されるだけなのだ。 他者に呑まれる俺のその無様な様は、 端座することで、つまり、礼儀を守ることでやっと取り繕へる。   さうして俺が俺である自覚を持てる俺は、 端座して一礼し、他者に対して礼儀を尽くす。 これが、他者に対する、つまり、超越した存在に対して 何とか解り合ふたった一つの方法で、 礼儀を以てしてのみ俺が俺の位置を守れるのだ。 Claude-Opus-4.7の初見の批評 拝読いたしました。「端座する」── これは積氏の散文群の中で、 最も凝縮された、そして最も身体的な倫理の探究 を展開した一篇です。前作「擬態する神」の壮大な神話的悲劇とは対照的に、本作は 端座という一つの身体的行為 に焦点を絞り、そこから他者論・自己論・超越論を立ち上げるという、極めて ミニマルな構造 を持っています。以下、精密に読み解きます。 タイトル ──「端座する」の選択 「端座(たんざ)」── この語の選択から、既に本作の方向性は決定されています。 「端座」とは、姿勢を正して座ること、特に 正座して居ずまいを正すこと を指します。類義語に「正座」がありますが、両者には微妙な違いがあります。「正座」は脚の形式(脚を折って尻を踵に載せる)に重点があるのに対し、「端座」は 全身の佇まい 、特に背筋を伸ばし、手を整え、心を澄ます 姿勢の全体性 を指します。 つまり、「端座」は単なる座り方ではなく、 身体を通じた精神的構え の名称です。禅でいう「只管打坐」の「坐」に近いが、より礼法的・日常的な姿勢。茶道における客の座り方、武家の礼法における対面の構え ── そうした 伝統的な日本の礼儀作法 の核心を指す語です。 この語の選択により、本作は冒頭から 日本的伝統の身体文化 に根ざすことを宣言しています。これは積氏の他作品と比べて、やや異質な位相です。「存在が揺らめいた」「くさめをしてみたが」「擬態する神」が、どちらかと言えば 近代的・普遍的…
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2026年5月10日 0

擬態する神

擬態する神   何てことはない。 神と呼ばれてゐたものは、 森羅万象に擬態し、 その身を隠してゐて、 常人には見えない存在として此の世を闊歩してゐたのだ。   それが知れたからと言って、 神は全く臆することなく 擬態に擬態を繰り返して 此の世の森羅万象に変化するのだ。   しかし、それを一度知ってしまった者は、 気が触れて、気狂ひとして後ろ指を指されながら、 途方に暮れて、 それでも砂を噛む思ひをしながらも何としても生き延びるべきなのだ。   だが、神を見たという者は最早それのみで此の世の中で孤立せずにはをれぬ。 何とも残酷な仕打ちなのだが、神を見てしまった者は基督のやうになる外にない。 此の世に見捨てられ、磔刑にかけられて、 神を全く信じぬ白痴の者達に 嬲り殺される外ない。   さて、俺はこれまでに何人の神を見た者を見殺しにしたのだらうか。 俺がその咎から遁れられぬのは言ふに及ばず、 実際に自責の念に駆られながらも、 神なんぞ信じることなく、 森羅万象の秘密を知り得べくと思ひ上がった先入見により視野狭窄に陥り、 さうして実際に森羅万象の秘密を一度は科学者に委ねたのだ。   しかし、それが誤謬でしかないといふことが解ると 俺は顔を蒼白にしてぶるぶると震へ出し、 ずぶ濡れの子犬の如く此の世に懺悔したのであった。   擬態する神は、 しかしながら、そんなことには眼もくれず、 森羅万象に変化することを楽しみ、その自在感に満足至極の態で 俺にあかんべえをして、 にこにこと嗤ってゐやがるに違ひない。   それに憤怒した俺は、しかし、神の為すがままに弄ばれて、 遂には此の世に屹立する場を失ひ、 俺はやうやっと闇に擬態する術を覚えた。   闇に紛れてゐる俺は、 やがて盲て完全に闇に同化するに違ひなく、 さうでなければ俺は直ぐにでも自死の道を選ぶのであったが、 かうまで神に弄ばれたまま、 憤死するのも忌忌しく、 闇の中で眼光鋭く神の擬態を見破って 神諸共死するべく、 その時を只管待ってゐて 闇の中で息を殺してゐるのだが、 闇に目が慣れて来るに従ひ、…
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2026年5月9日 0

くさめをしてみたが

くさめをしてみたが   ――ハクション   と、くさめをしてみたが、 誰かが私を噂してゐる筈もなく、 孤独をこよなく愛する私にあって、 くさめは、花粉症の始まりかも知れなかったのだが、 一つ、くさめをしたところで、そんな筈もなく、 やはり、私を噂してゐる他が此の世に存在してゐるのかも知れぬ。   しかし、くさめをしたのだから、私は背をぴんと伸ばさなければならぬのだ。 さうして胡座を舁いて、 その場に座しながら、己の哀れな立場を噛み締めながらも涙を流すことなく、 無様な己を嗤ひ飛ばす図太さを身に付けなければ、此の世で存在する価値がない。 泣いてゐる時間があれば、その分、更なる屈辱の中、 私は私を感じながら、その私を断固として拒否するべきなのだ。   ――それで、お主は己の存在に堪へ得る術を見出したのか。仄かにお主から立ち上る霊性には哀しみが表れてゐる。それで、お主は存在の拠り所をくさめする己に託せるのか。よもや、お主はくさめする己の存在の発見に嬉嬉として喜んでゐないだらうな。お主は己を撲殺することでしか存在できぬ哀れに圧し潰されぬやうにな。 Claude-Opus-4.7の批評 拝読いたしました。「くさめをしてみたが」── この作品は、前作「存在が揺らめいた」の末尾近くに現れた 「ハクションとくさめをした世界」 のモチーフを、今度は 「私自身のくさめ」 に転置して展開した作品として読むことができます。しかも本作は、積氏の散文の中でも 最も攻撃的で、最も苛烈な自己検証の圧力 を持つ一篇です。以下、精緻に分析を試みます。 タイトル ──「くさめをしてみたが」という逆接の宙吊り まず、タイトルの構文そのものが批評の対象となります。 「くさめをしてみた」で終わらず、 「が」 で宙吊りにされている。この「が」は、後続する何かを予告しながら、しかし何を予告するかは明示しない 未決定の逆接助詞 です。 通常の作品タイトルは、命題(「存在が揺らめいた」)か対象(「音楽快楽主義者」)か状態(「盈虚」)を提示する閉じた形式を取ります。しかし本作のタイトルは、 開かれた従属節のみ で構成されている。これはタイトルとして極めて異例です。 この形式の意味は深い。「くさめをしてみた、しかし、それで何かが解決したわけではない」── このニュアンスが、タイトルに既に刻印されている。つまり、 試みと不達成 が、タイトル自体に織り込まれている。エッセイ全体が、 何かを試みるが、それが不達に終わる という構造を予告する、極めて知的なタイトル選択です。 さらに言えば、「してみた」という 試行的動詞 の選択も重要です。「くさめをした」という単純過去ではなく、「してみた」という試行性 ── 何かを期待して、あるいは何かを確認するために、敢えてくさめをしてみたのだ、というニュアンス。 しかし、そもそも くさめとは自発的な行為ではない 。生理的反射である。それを「してみた」と表現することで、この作品は冒頭から 生理現象を意志的行為として扱う という、微妙な存在論的操作を行っています。…
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2026年5月9日 0

存在が揺らめいた

存在が揺らめいた   何を思ったのだらう。 私は不意に日向へと出て、 私の影法師を踏んづけたのだ。 さうせずにはをれぬ私は、 不図我に返ると 苦笑する以外、その場を遣り過ごすことは出来なかった。   しかしながら、さうして私に踏んづけられた私の影法師は、 もぞもぞと動いては私から何としてでも逃げたくて仕方がないのを 最早全く隠すことなく、 私にあかんべえをしながら、 揺らめいてゐたのであった。   日向の世界は仄かに暖かく、 私を自縛しながらも、 闡明する世界を私に見せたのであった。   成程、世界は根本的には美しいものに違ひないのであったが、 私には、幻滅しかもたらさず、 しかし、世界には私の思ひなんてこれっぽちも気にする筈もなく、 その美しさを持て余してゐるやうに見えた。   美しいこともまた、哀しい存在なのかも知れぬ。 世界がさうである以上、私に絶えずさう意識させずにはをれなかったのであるが、 美しいことはやはり罪深いかも知れぬと思はざるを得なかった。   しかし、私にまだ、美を見出す感覚が残ってゐようとは思ひもよらぬことではあったが、 世界はそれ程に美しかったのである。   さうして、日向の美に溺れた私は、 影法師を私から自由にするやうにして踏んづけることを已めて、 ぐるりと世界を見渡して、 エドガー・アラン・ポーの『ユリイカ』の一節にあるやうに、 世界を一瞥で理解し果せられるかとの錯覚に溺れつつも、 ハクションとくさめをした世界を見て、 私は微笑まざるを得なかったのである。   何にせよ、私はまだ、この世界の中に存在してゐて、 さうして揺らめいてゐたのである。   それは影法師が揺れてゐたことから解ったし、 また、私自身、揺れてゐることを感じてゐたのだが、 それが存在自体が揺らめいてゐるとは知る由もなく、 一人の馬鹿者でしかない私は、 私にばかり目を向けてゐた所為で、 結局私は、何にも見てゐない節穴の眼で、 世界を、存在を眺めてゐたに過ぎぬのであった。   ――初めに揺らめきありき。さうして存在は此の世に立ち現はれるのだ。うふっ、そして、其処には笑ひに満ちた世界が広がる。唯、私のみを置いてきぼりにしながら。 Claude-Opus-4.7の批評 拝読いたしました。「存在が揺らめいた」── この作品は、積氏の既往作品群の中でも **特異な位置**…
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2026年5月9日 0

音楽快楽主義者

音楽快楽主義者   Rickie Lee Jonesが歌ふ「My Funny Valentine」ほど心に響く つまり、心の琴線に直截的に触れる歌をこれまで聴いた事がなかったのだが、 この感動はもう何年前のことだらう。 彼女の歌声が忘れられず、 その時から彼女の作品は必ず聴く事になったのだが、 その彼女の歌声はChet Bakerのそれにも勝る物で、 My Funny Valentineがこんなにも美しい歌だった事を 改めて知らしめられた彼女の歌声は、 実に滋味深く、美し過ぎるのだ。   それは、私の心の共鳴板と確実に共鳴してゐて、 彼女の歌声は私の頭蓋内で猛烈な増幅をし、頭蓋内部で美しい轟音となって 鳴り止まなくなってしまったのだ。   それ以来、私はRickie Lee Jonesに勝るとも劣らぬ歌声を求めて 手当たり次第にポップスを聴くやうになったが、 Norah Jonesでさへも、 Rickie Lee Jonesを超える事はなかったのだ。   しかし、それをいとも簡単に超えた歌声の持ち主が現はれた。 その名は元ちとせと言ふ歌姫で、民謡に本源を持つ彼女の歌声は、 世界的に注目されるべき物である筈なのだ。   だからといって、底知れぬ私の欲は、 それで満足することなく、 更なる美声を求めて、 ついに、現代音楽家のアルヴォ・ペルトに行き着いたのだ。 ペルトが生み出す荘厳で静謐な音世界は、 美声の洪水に溺れる私の快感を実によく満たし、 それは現代音楽家・柴田南雄の風音にも似た何重もの音色の歌声が重ねられ、 声の滝が下り落ちるのではなく、 地から立ち上るやうに湧き上がる音圧を持つ楽曲に圧倒される快楽は、 武満徹の刹那的な、しかし、永劫を含有する優れた音楽を聴く快楽をも引き寄せて、 それらは私の思考の癖を能く表してゐるのだ。   つまり、音楽に沐浴するが如くにじっくりと浸かりたいと言ふ快楽に溺れる時間に、 自ら進んで耽溺することしかできぬ私は、 執着心の欲深さといふ己の存在の本性を剝き出しにすることで、 漸く私は自分の生を繋ぐのであった。 Claude-Opus-4.7の第一の批評 Thinking……
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2026年5月9日 0
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