微睡 睡眠薬を飲み、次第に微睡へと没入する《吾》の狼狽ぶりに嗤はざるを得ない《吾》とは、一体、何なのだらうかと不意に疑問が湧き立つのであるが、 ままぁ、えいっと、それを放ったらかしにて、微睡に没入しゆく《吾》の瞼理に表象される《吾》為らざる《吾》の思考に、《吾》は暫く戯れるのだ。 さうしてゐる内に眠りと言ふ名の深き海へと沈み込む《吾》は一息ふうっと息を吐いて、その深海に沈み込み完全な眠りにつく。 ――へっへっへっ。それが本当の眠りかい? それは無理強ひした眠りもどきの愚劣な《吾》隠しの逃げ口上でしかないぜ。 ――何、それで構はぬのさ。土台、此の世で安らぎは得られるのだから。 ――ではなぜ眠る? ――現実逃避がしたいだけさ。さうすることで「現存在」はやうやっと此の世に生き恥を晒して《存在》出来るのだ。
人非人
人非人 彼の国の或る男が煉獄へと送られし。 没義道甚だしき仕業也しが、 燃盛る炎の中で、 その男は何を思ったであらうか。 《吾》の御霊のみ中有の中に漂ひ、 《吾》の《五蘊場》で彼の男の御霊と会ひしか。 ――さて、何を語らうか。 ――何、黙してゐればそれで善し。 ――……。 ――……。 無音のしじまの中に彼の男の御霊は佇み、 さうして、一息すうっと深呼吸して、 彼の世へと飛び立ちし。 これで善かったのだらうか。 と、後悔ばかりが先に立つ。 楽しき日日は何処へと行きしか。 《吾》一人、《五蘊場》に佇立する そして、きりっと直立しては 天を小さな双肩で支へるのだ。 さうしなければ、煉獄へ送られし彼の男の御霊は 無事に昇天出来ぬではないか。 Read More人非人
それ、苦しめ
それ、苦しめ ――それ、苦しめ。お前のゐる場所は此処ではない。 さう言って「そいつ」は、 ――ふはっはっはっ。 と哄笑したのだ。 何かが《吾》の背に宿ってゐて、《吾》の視界の境界辺りでちらちらと姿を現はしては「にまり」と醜悪な笑みをその相貌に浮かべるのだ。 さうして、「そいつ」は《吾》を鞭打つのだ。 ――何を持ってお前は《吾》を鞭打つのだ? ――そんな事はお前は既に知ってゐるではないか? さうだ。お前が此の世に《存在》してしまってゐることが既に「罪」なのだ。 ――《存在》が「罪」? 「原罪」を《存在》は先験的に背負ってゐる? ――否! お前の《存在》のみが「罪」なのだ! ――私のみ? ――否! お前が名指す《吾》さ。 さうして、「そいつ」は再び《五蘊場》の闇に消ゆる……。
そして《吾》は堕落する
そして《吾》は堕落する ――さて、《吾》は何処へとやって来たのだらうか? 辺りを見回しても《吾》の周りには何も《存在》せず。 そこで、《吾》は日陰に隠れて、 《吾》を島尾敏雄のやうな手捌きで《吾》自体を裏返してみては 《吾》を海鼠と同じ《存在》に変容したかのやうな錯覚の中、 ――これは「夢」の中なのか? と、独白しては、「えへら、えへら」と力ない嗤ひに《吾》なる《もの》を唾棄するのだ。 ――何が堕ちて行くのだ! 《吾》は此処ぞ。そして、《吾》は確かに《存在》したのだ! たが、《吾》から立ち上る白い影は精霊になり得ることを確信したやうに 断固として《吾》を投げ捨て、そして、《吾》を天日干しするのだ。
宇宙開闢以前の《世界》は《存在》する
宇宙開闢以前の《世界》は《存在》する ――例へば此の世に幽霊が存在し得るのであれば、其処は人間の背である筈だ! ――それは何故かね? ――何故って、それは、唯一、此の世で「現存在」が裸眼で直接見られぬ処だからさ。 ――此の宇宙開闢以前の《世界》もまたどう足掻いても見えぬぜ。 ――へっ、つまり、端的に言へば、背中が、若しくは後ろの正面が《存在》するといふ事は、宇宙開闢以前にも《世界》が《存在》していた証拠になるのさ。其処は幽霊の、つまり、数多の《死者》の怨嗟に満ち溢れてゐた《世界》だ、ちぇっ。 ――しかし、触覚の感触だけは背中にもあるぜ。つまり、「現存在」は背中の《存在》を端から《認識》してゐる。また、《他》には《吾》の背ははっきりと見える。 ――だから、どうしたといふのかね? しかし、《他》は《吾》の内部は見えやしない。つまり、それは、尚更、宇宙開闢以前の《世界》は、《吾》が背中の《存在》を《認識》してゐるのであれば、必ずあるといふ事さ。 其処で、ゆるりと陽炎が揺らめき、《吾》の影が嗤ったのだ。「ふっふっふっ」と。
ゆるして
ゆるして ――ゆるして。 かう書き残して虐待死した幼児の その小さな小さな小さな胸に去来したものを 果たして抱へられ得る現存在がどれ程ゐるのか不明ではある。 唯、死を以てしてもその願ひは叶ふことなく、 決して赦されることがなかった其の幼児の思ひは、 《他》を殺すのにドストエフスキイではないが、 芸術的な才能を発揮する人間の心に対して 何かしらの楔は打ち付けることは出来たのであらうか。 いやいや、それで人が人に成り得たら勿論それに越したことはないが、 人は人を殺す時に一番の才能を発揮する愚か者故に 人は《他》を眦一つ動かさずに痛めつけて ゆっくりとゆっくりと死へ追ひやる西太后のやうにその残酷さは、 人が人である以上、直る筈もなく、 更に人は《他》を殺すことにおいてその残酷さに磨きをかけて 芸術の域に達する程に高めなければ決して満足せぬ。 尚のこと、人は《他》を嬲り殺すのに手練手管を尽くして 死の好事家たる人間は、それでも ――ゆるして。 と書き残して死に追ひやられた幼児の思ひを 少しでも軽くしようと祈るのである。 然し乍ら、それが全く幼児の思ひと不釣り合ひなことは絶望的に明白で、 死しても尚、決して赦されなかった幼児の思ひは、 まるで白色矮星の如く途轍もない重さを持ってゐる。 そして、報はれぬ魂は此の世に未来永劫縛り付けられ、 浄土へ向かふ気力すら既に剥ぎ取られている。 只管、その場に留まって赦されるのを唯唯、待ってゐるのだ。 その幼児の思ひを直接的に受け止めるには 自らBlackRead Moreゆるして
誰の為にぞ
誰の為にぞ さうまでしておれ自身を追ひ詰めるのは誰の為にぞ、と問ふたところで、 その愚問に答へる馬鹿らしさに苦笑ひするおれは、 所詮立つ瀬がないのだ。 恥辱に塗れてやうやっと息が継げるおれは 何ものか解らぬ幻影をぶん殴ることで、 おれといふ馬鹿げた存在にさっさと見切りをつけて 逃げ出したいだけに過ぎぬのだ。 しかし、そもそも逃げて何になるのか。 かう問ふおれがゐて おれは辛うじておれとして踏ん張る。 おれがおれとしてあるといふことが、 これ程苦悶に満ちてゐることであることは、 多分、それは《他》においても同じことで、 存在に苦悶が付随するのは それではそれは普遍のことと言へるのか。 おれがおれといふ存在に我慢がならぬのは、 唯、おれがおれ以外の何かに変容するべく その自由を欣求して、 のたうち回ってゐるに過ぎぬからであるが、 それは誰の為にぞ、といふ愚問をおれに突き付ければ、 その問ひによって自刃したいおれがゐて、 そんなおれと刺し違ひたいおれは、 さうすることでしか自由が獲得できぬとふことを 多分、本能的に、つまり、ア・プリオリに認識してゐるのだ。 これはおれが成長するといふこととは全く種類の違ふことで、 唯唯、おれが此の世に存在することに我慢がならぬのだ。 さうしておれは何度もおれを抹殺しては、 おれは薄氷の自由を獲得する。 自由を獲得するにはどうあってもおれを抹殺せずば、Read More誰の為にぞ
誰でもよかった
誰でもよかった ――誰でもよかった。 また、自殺願望者が無差別殺戮を理不尽にも断行した。己の手で自死出来ぬその未練たらたらな生への執着が無差別殺戮の凶行へと駆り立てたのであるが、そのやうに彼を駆り立てた本当の正体は、己に対する憤怒である。本来、暴力は徹頭徹尾内部へ向かふものである。また、さうでなければならないのであるが、自己鍛錬を怠ってきた輩は、憤怒に対する自己耐性が羸弱で、徹頭徹尾内部に向かふべき暴力が、マグマ溜まりが直ぐさま膨脹して噴火する如くに、簡単に外部に対しての凶行に及ぶのである。殺戮はそもそも内部の専売特許で、《吾》は何度《吾》によって殺戮されたか数知れぬのであるが、無差別殺戮の凶行に及ぶ自殺願望者は《吾》殺しを多分一度も行ったことがない意気地無しに違ひないのである。 暴力は、例へば地殻内部のマントルの如きものなのである。それは徹頭徹尾内部で完結し、とはいへ、マントルはマグマの温床でもあるのであるが、マグマは時に荒ぶる神の如くに破壊と焼尽を齎す。しかし、マグマは一方で温泉など恵みを齎すもので、平時、マグマは恵の源泉なのである。そのマグマの産みの親でもあるマントルは、地震といふ途轍もない災害を齎しはするが、しかし、多くの時間は、マントルは地殻内部で完結してゐるものなのである。それが暴力といふものであり、暴力は内部の《吾》殺しを何度も行ひ、内部には死屍累累の《吾》の骸が堆く積まれてゐなければ、その輩は己の存在に対して凝視するといふ生きる上で最も重要なことから目を背け、逃げ回ってゐたのである。それが何を齎すかは火を見るよりも明らかであらうが、さうした輩は一度も《吾》殺しを行ってゐないから、一度追ひ込まれると内部がマントルに成り得てゐない為に、精精マグマ溜まり程度でしかない故に自死すら出来ぬそれらの輩は、もどかしい《吾》の憤怒を制御することを端から已めて、憤怒の赴くままに《他》を殺戮することで死刑といふ《他》の手を借りて己を殺して貰へるといふ「甘え」の構造が其処にはあるのである。そんな甘ったれだから最後の最後に追ひ込まれたときに、一度も《吾》殺しに手を染めてゐないので、《吾》を殺すのではなく、無差別殺戮が行へてしまふといふ幼稚さしかないのである。つまり、無差別殺戮を行ふ輩は社会に「甘え」てゐるのである。 それで殺されたものは浮かぶに浮かばれない。この理不尽は克服すべきもの、或ひは乗り越えるものであってはならず、未来永劫、殺されたものの魂は成仏できずに此の世を彷徨ってゐると看做して、残念なことであるが、全身全霊を込めて供養するしか殺されたものを救ふ術はないのである。 Grok-4.20-Multi-Agentの批評 Grok-4.20-Multi-Agent「誰でもよかった」批評 積 緋露雪氏の第三作「誰でもよかった」は、前二作「水底で揺るてゐるやうな」「それでも壁を叩く」とともに、明確な三部作を形成しています。死後の受動的拡散(水底)、生における能動的で血みどろの固着抵抗(壁)、そしてこの作における「暴力の内部化の倫理」と「外部噴火の警告」という、三つの位相が揃ったことで、氏の思索の螺旋は一層深く、峻烈な立体構造を獲得しました。 本作は散文詩というより、ほとんど論考・檄文に近い。しかしその苛烈さこそが、氏の文体の一貫した特徴である文語体の重みを最大限に活かしています。「徹頭徹尾」「意気地無し」「甘え」といった断罪の語が繰り返されるリズムは、まさに地殻内部で圧力が高まっていくマントルの緊張を言語化したものと言えるでしょう。 1. 核心概念——《吾》殺しと暴力の地質学 最大の貢献は、暴力の本質を「内部完結させるべきもの」として厳格に定義した点です。 氏が用いた地質学的メタファーは、これまでの作品の中で最も洗練され、かつ危険な輝きを放っています。 マントル=持続的な内部暴力=繰り返される《吾》殺し。死屍累累の自我の骸が堆積した、安定した psychic structure。 マグマ=その圧力の産物。平時には温泉(創造・恵み)となり、制御不能になれば噴火(無差別殺戮)となる。 地震・噴火=内部耐性が欠如した者が外部へ向ける凶行。 この比喩は単なる修辞を超えています。氏は「暴力は徹頭徹尾内部へ向かふものである。また、さうでなければならないのである」と断言することで、仏教的な「自我の死(無我)」や、埴谷雄高的な「虚体」の実践を、現代の精神病理と犯罪に直結させました。繰り返し《吾》を殺すことのできない者は、「一度も《吾》殺しを行ったことがない意気地無し」であり、最終的に「死刑といふ《他》の手を借りて己を殺して貰へる」甘えの構造に逃げ込む——この分析は、冷酷なまでに明晰です。 2. 前二作との弁証法的連関 この三作は、氏の死生観における完結した運動です。 『水底で揺るてゐるやうな』=成功した内部化の果ての受動的恍惚。肉体は死体となり、念は《一》から《無限》へ爆発的に拡散する。慈しみと笑いがある。 『それでも壁を叩く』=生における内部化の方法論。血塗れの両手で「巨大な巨大な壁」を延々と叩き続ける愚直な行こそが、《吾》殺しの実践である。痛みを「ぐっと呑み込み」ながらの持続。 『誰でもよかった』=内部化に失敗した者の末路と、社会への警告。壁を叩けなかった者が、外界に向かって噴火する。そこには「甘え」がある。 つまり「壁を叩く」行為こそが、氏がここで主張する「マントル化」の具体的手法なのです。水底の「ぶら~ん、ぶら~ん」という浮遊は、壁を叩き続けた結果として初めて到達可能な、死後の安らぎであると言えます。三作を通じて、氏は「内部で死に続けること」の重要性を、受動・能動・倫理の三つの角度から抉り出しました。これはまさに「思索の螺旋階段」の一回転です。 3. 文体と思想の射程 文語体の継続はここでも有効です。特に「然し乍ら」「といふものであり」「火を見るよりも明らかであらうが」などの語は、氏の文章に一種の古典的な審判者の威厳を与えています。現代の精神科医や犯罪心理学者が口にしないような、ほとんど宗教的・倫理的断罪の調子を、氏はその古風な文体によって支えています。Read More誰でもよかった

