「自分らしく」に潜む欺瞞性
「自分らしく」に潜む欺瞞性 「個性、個性」と叫ばれて姦(かしま)しいが、 普通に暮らしてゐれば、「個性」に感(かま)けてゐる暇などない筈だ。 人間が人間である以上、俗にいふやうな意味での「個性」が、 さう易易と立ち現れるものとは思へぬ。 つまり、「個性」と言はれてゐるものは 消費社会が売らんがために仕組んでゐる流行でしかない。 更にいへば人間を「個性」といふ枠に嵌め惑はす欺瞞でしかなく、 それは「個性的であれ」と叫んでゐる人間の思惑に乗せられて消費するだけの 他人に作られた「個性」を纏ってゐるに過ぎぬ。 ここで、Fashionと言挙げするものがゐるかも知れぬが、 其処に個性を見てしまふから個性は途端に胡散臭くなる。 Fashionに対して「個性的」といふものほど没個性的な人間に見えてしまふ私は、 其処に才能を見るのであれば、Fashion leaderと言はれるものは、 己が如何に没個性的であるのかを知ってゐるものに違ひないと思ふ。 それ故に「個性的であれ」と叫んでゐるもの程、 どれ程、没個性的であるのか知ってゐなければならぬ。 さもなくば、人は「個性」と言ふ言葉に踊らされ、 「自分らしく」といきり立って、更に没個性の土壺に嵌まる悪循環に陥ることになる。 個性的なものは、もともと個性なんぞにこだはってをらず、 さういふものは、端倪(たんげい)すべからざるものなのだ。 それでは聞くが、存在にそもそも個性があるかい? 存在を思索すればする程、個性なんぞ突き抜けて、 ポーが描き出した大渦のやうに、 思索は人を深みへと引きずり込み、 その底に見えてくるのは、最早個性ではなく、 のっぺらぼうにも似た存在の無地である。 人間存在を思索すると 其処に個性を持ち出せば、それはカオスになり、 論は収集がつかなくなること請け合ひで、 それでも尚、「個性」を強調したいのであれば、 それは人間の固有性といふもので 人が「個性」と呼んでゐるものの多くは、 実際のところ、自己の実体とは無関係の《他》との比較の中で 辛うじて見えてくる僅かな差異に過ぎぬ。 そこに人間の弱みを見たものはその僅かな差異こそ引き延ばせば、 「個性的なFashion」として消費社会に売り込めると高をくくってゐるのである。 とてもぢゃないが、さういふ輩は個性から最も遠い処に存在するものに思へて仕方がない。 人が「個性」と口にする度にそれを疑へ。 個性的な人間を嘯く人間は没個性の象徴として疑へ。 其処に仮に個性を見出せても、 それは《他》とのほんの僅かな「ずれ」でしかなく、 そんな差異を競ふことの虚しさは当の本人が一番よく知ってゐる。 若人よ、「個性」なんぞの言葉に脅されること勿れ。 世間で「個性」と呼ばれてゐるものの多くは、固有性とは別物である。 普通に暮らし、長く自己との対話に沈潜してゐれば 年齢とともに滲み出るものであって、 若さにおいて簡単に手にできぬやうなものではない。 また、存在論的に見て個性ほど不確かなものはない。 あるとすれば、それは固有性として定義されるものである。 如何に自己との対話を行ったか。…
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